牧場のバターは角が丸い
初瀬部陸央は、自分のパン屋を開く計画を白紙にした。
共同経営の相手と意見が合わず、借りる予定だった物件も手放した。厨房機器の見積書だけが残り、半年分の早起きが行き先を失った。
北の牧場にある宿を選んだのは、朝食のパンが評判だったからだ。
けれど到着した晩、陸央は「今はパンを見たくない」と思った。
宿の主人へそう言うと、
「じゃあ、朝は米にします」
と簡単に答えられた。
翌朝、目覚ましなしで五時に起きた。
長年の仕込み時間が体へ残っている。
外へ出ると、牧草に露がつき、遠くで牛の鈴が鳴っていた。牛舎の前で、高校生くらいの娘が餌を運んでいる。
「早いですね」
「あなたも」
「私は仕事」
その言葉に、陸央は少し身を縮めた。
娘は気づかず、バケツを一つ差し出した。
「子牛へミルク、あげます?」
哺乳瓶を持つと、子牛が強い力で吸いついた。
陸央の袖へ白い泡が飛ぶ。
「上手です」
「パン屋になる予定だったので」
「予定だった?」
「やめました」
「じゃあ今は、ミルク係」
娘はあっさり役割を変えた。
朝食は本当に米だった。
卵、野菜のスープ、宿で作ったバターが小皿へ載っている。
「米にバター?」
主人が笑う。
「これは昼のパン用。見るだけでもいい」
焼きたての丸パンが籠へ追加された。
陸央は香りに負け、一つ取った。
皮は薄く、中は湯気を抱えている。バターを載せると角から溶け、表面へ黄色く染みた。
「バター、形が崩れてますね」
「手で切るから。店へ出す商品じゃないし」
主人は気にしなかった。
陸央はパンを噛んだ。
小麦、牛乳、塩。特別な配合ではない。それでも朝の冷たい空気の中で、温かなパンと溶けた脂が体へ入ると、何かを作りたいという感覚だけが戻ってきた。
店を持ちたいのか、毎日焼きたいのか、まだ分からない。
分からないままでも、今日一個焼くことはできる。
帰る前、宿の厨房を借りて、娘と小さなパンを丸めた。
大きさは不揃いで、焼き色もばらばらだった。
「売れます?」
娘が訊く。
「売らない。昼に食べる」
「なら全部合格」
紙袋へ二つ入れてもらい、陸央はバスへ乗った。
車内に牧草とバター、小麦の温かな香りが広がる。
店の計画は白紙のままだったが、白い紙の上に、丸いパンの油染みが一つ残ったような旅だった。