狐の売店、乗り換えなし
山裾駅の一番ホームには、キツネが営む売店「灯尾」がある。
店主も灯尾という名で、赤い尾を椅子の穴から外へ出し、稲荷寿司と温かい茶を売っている。人間の高校生が夕方だけ手伝う。
禰津彰文は、毎朝そこで稲荷寿司を一つ買った。
「片道ですか、往復ですか」
灯尾が訊く。
「稲荷に切符はつかないでしょう」
「顔が移動中なので」
彰文には、隣県の支社へ移る話が来ていた。昇給もするし、仕事内容も悪くない。ただ、今の町を出たいのかと訊かれると分からない。返事の期限が近づくほど、通勤電車の窓に映る自分まで途中駅のように見えた。
「決められない人向けの商品はありますか」
ある朝、彰文が冗談で訊くと、灯尾は棚の下から小さな紙袋を出した。
「散歩稲荷。二つ入り」
「普通の稲荷では?」
「目的地を決めずに食べると、散歩稲荷です」
休日、彰文はそれを持ち、支社のある町へ行ってみた。
会社には寄らず、駅前の川沿いを歩く。古い喫茶店、広い公園、夕方になると味噌の匂いを出す総菜屋。悪くない町だった。
帰りの電車を一本遅らせ、ベンチで二つ目を食べた。甘い油揚げの中へ、山椒の葉が一枚入っている。
翌朝、灯尾がいつものように訊いた。
「片道ですか、往復ですか」
「見学だけなので往復でした」
「町は?」
「住めそうです。でも、今の町も好きでした」
「両方分かったなら、散歩成功ですね」
「答えは出ていません」
「乗換案内は、目的地が決まっている人の道具です。決める前には、ホームで茶でも飲む」
灯尾は湯呑みを差し出した。焙じ茶に、少しだけ柚子皮が浮いている。朝の冷たい空気へ、香ばしく明るい匂いが広がった。
彰文は結局、異動を受けた。ただし三か月後からにしてもらい、今の町で好きな場所を一つずつ訪ねることにした。
最後の出勤日、灯尾へ挨拶すると、稲荷寿司が三つ入っていた。
「一つ多いです」
「乗り換え用」
「どこへ?」
「新しい町から、疲れた日に戻るため」
列車の扉が開く。彰文は紙袋を胸へ抱えた。甘い醤油と柚子茶の香りが、ホームの木の匂いに混じる。
灯尾は尾を一度振り、「いってらっしゃい」と言った。片道の言葉なのに、その声にはちゃんと帰り道まで含まれていた。