狐面の裏で
舞台の小道具箱から白い狐面が出てきた。
劇団の稽古場で、紫乃はその面を両手に載せた。目の穴の縁には、昔、自分でつけた黒いマスカラの跡が残っている。
高校最後の夏祭り、演劇部は境内の特設舞台で短い芝居を上演した。主役に選ばれたのは親友の琴深で、紫乃は狐の群衆役だった。
オーディションに落ちてから、紫乃は「平気」と言い続けた。琴深の台詞を一緒に覚え、衣装のほつれまで直した。それなのに本番直前、拍手の練習をする観客の声を聞いた途端、胸の奥に黒いものが広がった。
紫乃は狐面をかぶり、屋台の裏へ逃げた。泣いても面が隠してくれると思った。
「そこ、尻尾見えてるよ」
琴深が追ってきた。主役の赤い衣装のまま、息を切らしている。
「見つけないで」
「だったら、ちゃんと隠れて。紫乃、見つけてほしい人の隠れ方してる」
面の内側に涙が落ちた。
「おめでとうって言いながら、ずっと悔しかった」
「うん」
「失敗すればいいって、一回だけ思った」
「私も、紫乃が代役になればいいって思われてる気がして、ずっと怖かった」
琴深は慰めなかった。許すとも言わなかった。ただ狐面の額を、自分の額にこつんと当てた。
「終わったら、どっちが上手かったか喧嘩しよう。今は舞台に出よう」
紫乃は面をつけたまま舞台へ戻った。主役ではない。悔しさも消えていない。それでも群衆の一人として声を上げた瞬間、自分の声が琴深の台詞を支えていると分かった。
十年後。プロの劇団に入った紫乃は、大きな役の最終審査に落ちたばかりだった。後輩には笑って結果を報告したが、稽古場に一人になると狐面を探していた。
紫乃は面を顔へ近づけ、途中で止めた。隠れるための道具を、もう一度隠れるためには使いたくなかった。
スマートフォンで琴深に電話をかける。今は地方局のアナウンサーをしている彼女は、二回目の呼び出しで出た。
「慰めないでね」と紫乃は言った。
「分かった」
「悔しい。だから次の稽古、付き合って」
電話の向こうで、琴深が昔と同じように笑う。
紫乃は狐面を小道具箱へ戻した。蓋は閉めなかった。悔しさをなくすのではなく、顔を出したまま連れていくために。