狩猟会に馬はいらない
リゼットは馬に乗れない。
正確には、乗れば笑えるし手綱も握れる。だが五年前の落馬で兄を亡くしてから、蹄が石を打つ音を聞くだけで背中が冷たくなる。
それをヴァレン公爵に知られたのは、婚約後の視察だった。彼女が厩舎の前で半歩遅れただけなのに、彼は何も尋ねず馬車を回した。翌日から二人の移動予定には、必ず馬車と徒歩の選択肢が併記されていた。
秋の王室狩猟会。貴族の婚約者は揃いの馬で森へ入る決まりだ。
「公爵夫人になる方が馬も扱えないなんて」
令嬢たちの笑い声に、リゼットは鞍へ足を掛けた。今日だけ耐えればいい。ヴァレンは遠くで衛兵の配置を叱責している。誰にも妥協しない彼に、これ以上手間をかけさせたくなかった。
鐙に靴先を入れた瞬間、馬が鼻を鳴らした。
「降りろ」
背後から冷たい声が飛ぶ。ヴァレンだった。
「できます」
「できるかではない。したいかと聞いている」
周囲の視線が集まった。王太子が冗談めかして言う。
「今回ばかりは慣例に従わせたらどうだ、公爵。妻を甘やかしすぎると家臣に示しがつかんぞ」
ヴァレンは王太子にすら頭を下げなかった。
「家臣には命令します。婚約者には選択肢を渡します」
彼が指を鳴らすと、森道用の小さな馬車が進み出た。座席には、リゼットが酔わないよう薄荷を染み込ませた布まで置かれている。以前、山道で彼女が一度だけ使ったものだ。
それでもリゼットは迷った。馬車を選べば、臆病者と笑われる。公爵の権威に守られただけだと思われる。
ヴァレンは手を差し出さず、馬と馬車の間から退いた。
「どちらも嫌なら、狩猟会そのものを欠席していい」
「あなたの面目が潰れます」
「面目は私の所有物だ。君の恐怖を代金に守る気はない」
王太子が眉を上げる。
「では、公爵家は開会行列から外れるのか?」
ヴァレンはリゼットだけを見た。
「彼女が望むなら」
リゼットは鐙から足を抜き、馬車の扉を自分で開けた。
その瞬間、ヴァレンは王太子へ向き直った。
「公爵家は馬車で先導します。異論がある者は、徒歩でついてこい」