王手まで三手
宇佐見昌孝は、地方大会で何度も優勝した将棋指しだった。
妻の鶴巻小春が浮気を問いただした夜も、盤面を読むような顔で言った。
「証拠がない。勘だけで王を取りに来るから負けるんだ」
小春は「そうだね」と答え、それきり責めなかった。
昌孝は沈黙を降参だと思った。大会仲間には「妻が勝手に疑って家を出た」と話し、盤上でも家庭でも自分は読み負けないと笑った。小春はその間、消された予定を復元し、名義を確認し、相手の女性へ一度だけ事実を伝えた。
三か月後、離婚調停で昌孝は余裕を取り戻していた。
「妻は嫉妬深く、女性の同僚と食事をしただけで騒ぎます。婚姻を壊したのは妻のほうです」
小春は膝の上で指を三本折った。
「一手目」
提出したのは、昌孝が家族共有カレンダーから消した予定だった。削除前の通知が小春の古い端末に残っており、毎月第二木曜だけ「研究会」と登録されていた。
昌孝は鼻で笑った。
「それが何だ。将棋の集まりだよ」
「二手目」
同じ日付のホテル利用明細が並んだ。昌孝が大会遠征用に作った会員番号には、宿泊者の追加登録履歴が残っていた。
「仕事の相談をしただけだ。部屋には入れていない」
小春は最後の指を折った。
「三手目」
調停委員へ渡したのは、昌孝の相手だった女性の陳述書だった。彼女は昌孝から「妻とは離婚成立済み」と聞かされ、結婚を約束されていた。小春が連絡すると、最初は警戒したが、日付と文面を照合した瞬間に協力を申し出た。
昌孝の顔が初めて盤から上がった。
「彼女が、そんなものを書くはずがない」
小春の代理人が録音の反訳を開く。そこには昌孝自身の声で、妻を「もう他人だ」と説明し、離婚後の新生活まで語る言葉が残っていた。
「誘導された会話だ。切り貼りかもしれない」
代理人は、相手の女性の端末から保全した原音声と、送受信時刻を証明する記録を並べた。さらに昌孝が女性へ送った棋譜写真の位置情報が、ホテルの所在地と一致していた。盤面の端には、二人分のグラスまで写っている。
調停委員が三つの資料を一つの事件記録へ綴じ、相手方へ正式に示した。
小春は昌孝が好んだ言葉を返した。
「王手です」