病室のてんとう虫へ

あの日、あなたは母の病室へ迷い込みました。

十一月なのに暖かい午後でした。赤い背中に黒い星を七つ載せ、窓とカーテンの間を何度も歩いていました。

私は母のベッドの横で、退院できないという医師の説明を聞いたばかりでした。

何もできないことに腹を立て、窓辺を動くあなたまで疎ましく思いました。ティッシュで包んで捨てようとすると、母が細い声で言いました。

「外へ出してあげて」

「虫だよ」

「だからよ。ここがどこか、分からないでしょう」

母は自分で起き上がれず、窓にも届かなかった。それでも、あなたが帰れないことを気にしました。

私は薬の説明書を一枚取り、あなたの前へ差し出しました。

あなたは反対側へ逃げました。

窓枠を登り、落ち、また歩きました。

母が笑いました。

「あなたに似てる。助けられるのが下手」

「誰のせいで下手になったと思ってるの」

久しぶりに、いつもの親子喧嘩の声が出ました。

私は説明書を置き、指で道を塞がずに待ちました。やがてあなたは紙の上へ乗りました。

窓を少し開けると、冷たい風が入りました。

母は目を細めました。

「外の匂い」

あなたは紙の端まで歩き、迷うように触角を動かしたあと、飛びました。高くは上がらず、病院の壁へ一度ぶつかり、それでも庭の木へ向かいました。

「ちゃんと帰れたかな」

母が言いました。

「分からないよ」

「分からなくても、窓までは手伝えたでしょう」

母はその夜、眠るように亡くなりました。

私は長い間、あの窓を開けたことを後悔しました。もっと話せばよかった。手を握ればよかった。風を入れて寒くなかったか。考えれば、できなかったことばかりでした。

けれど数年後、娘の教室へテントウムシが迷い込みました。

子どもたちは騒ぎ、誰かがノートで叩こうとしました。娘は窓を開け、紙を一枚差し出しました。

「ここがどこか、分からないんだよ」

母と同じ言葉でした。

私は初めて、あの日したことが、何もできなかった時間の中の「一つ」だったと知りました。

あなたを逃がしても、母は助かりませんでした。

それでも母は最後の日まで、小さな命の行き先を気にする人でした。私は窓を開けることで、その人らしさを一度だけ手伝えたのです。

病室のてんとう虫へ。

あなたがどこへ飛んだのか、今も分かりません。

ただ、あの日開けた小さな窓は、母から私へ、私から娘へ、まだ閉じずに残っています。