病室の続きを描く人
小児病棟の夜勤で、紗英はベッド脇の落書き帳に見覚えのある人物を見つけた。
片方だけ長い耳、胸元に三日月の留め具。紗英が「眠り椿」という名で描いている冒険漫画の主人公だった。即売会でしか頒布していない本なのに、十歳の患者は何枚も模写している。
「それ、知ってるんだ」
思わず言うと、少女は目を輝かせた。
「お姉ちゃんが買ってくれた。作者さん、今お休み中なんだって」
紗英はマスクの下で唇を噛んだ。三か月前、職場の知人にアカウントを見つけられた気がして、更新を止めた。看護師が漫画を描くなんて軽く見られる。患者のことを材料にしていると疑われる。そう考えるだけで、ペンを持てなくなった。休止を知らせる投稿には、理由を書けず《少し忙しくなりました》とだけ残した。忙しいのは嘘ではないが、本当でもなかった。
少女の絵では、三日月の留め具が左右逆だった。
「これはね、左じゃなくて右」
指摘してから、しまったと思う。
「どうして知ってるの?」
紗英は体温計をケースに戻した。
「よく見てたから」
「本にも後ろ姿しかないよ」
少女はしばらく紗英の目を見た。それから、声を潜める。
「眠り椿さん?」
心拍計の電子音が、やけに大きく聞こえた。
否定しようとしたとき、少女は先に人差し指を口元へ立てた。
「言わない。ここでは看護師さんだもん」
秘密を握られたはずなのに、その言葉は毛布のように静かだった。
「続き、描かないの?」
「待ってる人、いるかな」
少女は落書き帳を一枚破り、紗英へ差し出した。主人公が病院の廊下らしい場所を走っている。吹き出しには、たった一言。
《まだ行ける》
「少なくとも一人」
検温を終え、紗英はナースステーションへ戻った。休憩まで十五分。白衣のポケットには、折り畳まれた絵が入っている。
業務記録を書き終えてから、紗英は私物の小さなノートを開いた。三か月ぶりに、主人公の耳を描く。胸元の留め具は右側。
一コマ目が完成したところで、夜明け前の巡回を知らせる時計が鳴った。
紗英はノートを閉じたが、捨てなかった。