白で消す
美術室の奥の壁には、三年分の絵があった。
一年目は海。二年目に凪沙が鯨を描き足し、文化祭前には由良がその背へ町を載せた。後輩たちは雲や鳥や、意味のわからない翼のある自転車を増やした。統一感はなかったが、誰がどこを描いたかは、二人には全部わかった。
最後の部活動は、その壁を白く戻すことだった。
春休みに配管工事が入る。美術室は普通教室へ戻され、壁画は残せない。
「写真、撮った?」
「百枚」
「じゃあ始めよう」
凪沙がローラーを転がした。
白い塗料が、海の端を飲み込んだ。
由良も隣から塗る。翼の自転車が消え、夕焼けが消え、鯨の尾が半分になる。描くときは何日もかかった線が、一往復でなくなった。
「雑」
凪沙が言う。
「消すだけなんだから」
「消すときほど丁寧に」
「誰も見る人いないよ」
「私が見る」
由良はローラーを持つ手に力を入れた。
本当は、壊されるくらいなら自分で消したいと言ったのは由良だった。壁画を知らない作業員に灰色の板で塞がれるより、最後まで自分たちの手で触れたかった。
でも、白くなるほど胸が腹立たしくなった。
「残したかった?」
凪沙が訊いた。
「別に」
「私は残したかった」
「じゃあ反対すればよかったじゃん」
「由良が消すって言ったから」
「私のせいにしないで」
ローラーが止まった。
白い壁の中央に、鯨の目だけが残っていた。青い小さな丸。二人を責めるようにも、笑うようにも見える。
凪沙が床へ座った。
「これ消したら、ほんとに終わるね」
「絵なんて写真にある」
「写真には、描いたときの匂いがない」
「塗料臭かっただけ」
「由良、青を靴につけて三日間歩いてた」
「お前は髪に白い雲つけて帰った」
「お母さんに白髪って言われた」
二人は笑った。笑うと、鯨の目が少し滲んだ。
閉校時刻の放送が流れた。
由良は細い筆を取り、鯨の目の上へ白を置こうとした。けれど凪沙が、壁際の大きな棚を少し動かした。
「ここなら工事でも見えない」
棚の裏、床から十センチの場所に、指先ほどの青を残した。海でも鯨でもない。ただの四角だった。
「未完成だね」
「完成した絵なんて、うちの部にあった?」
「ないかも」
最後に二人で壁を塗り切る。乾きかけの白は、窓から差す夕日を薄く映した。そこには壁画の代わりに、ローラーを持つ二人の影が並んでいた。
美術室を出るとき、由良は棚の裏を振り返らなかった。
見えない青が残っていると知っているだけで、白い壁はもう、何もない壁ではなかった。