百年石鹸と午後三時
小鳥遊澪が買った石鹸工房には、百年前から働き続ける泡の精がいた。
油壺の栓を開け、灰汁を量り、香草を刻み、型へ流す。泡の精たちは歌も掛け声もなく、ぷくぷくと膨らんでは作業台を渡っていく。注文札に《洗濯用》《敏感肌》《赤子用》と書けば配合を変え、乾燥棚の石鹸が固まると、包み紙まで畳んでくれた。
澪の仕事は、午後に一度、精たちへ砂糖水を置くことだけだ。
以前の職場は公爵家の洗濯棟だった。青い作業服は肘も肩も擦り切れ、名札の文字は蒸気で消えかけている。晩餐会の翌日は千枚の布を洗い、染みが一つ残ればやり直し。退職後も通信札には『客用シーツ不足』『至急戻れ』が未読で並んでいた。
午後三時、工房の包装紐がちりんと鳴る。
《定期購入分、二十四個発送。売上を入金しました》
澪は苺のタルトを一切れ買える額だけ、別の小箱へ移した。残りで暮らしは足りる。大金より、三時に甘いものを食べても誰にも叱られないことのほうが嬉しかった。
そこへ公爵家の家政長から通話が入る。
『明後日の宴で客が増えた。洗濯棟が混乱している。お前なら徹夜で間に合わせられるな』
「間に合わせません」
『恩を忘れたの? 住み込みで雇ってあげたでしょう』
澪は古い制服を見た。住み込みとは、帰る時間を与えない仕組みだった。
「制服も鍵も返しました。石鹸が必要なら、店で買ってください。私の徹夜は販売していません」
通話を切ると、泡の精が完成品を一つ、澪の前へ転がした。檸檬の匂いがする丸い石鹸だった。
泡の精は、疲れると勝手に作業をやめる。砂糖水の皿へ集まり、丸い体をしぼませて眠るのだ。最初にそれを見た澪は、注文が残っているのに、と慌てた。だが翌朝には作業が再開され、納期にも遅れなかった。休ませたほうが失敗は少ない。その簡単な理屈を、公爵家では人間にだけ認めなかった。澪は精たちの休憩時間を工房規則の第一条にし、第二条へ《店主にも適用》と大きく書いた。
彼女は工房の札を《午後休業》へ裏返し、タルトの皿を庭へ運んだ。三時の鐘が鳴り終わる前に、長椅子へ足を伸ばした。