皿が覚えていた言葉
祖母から受け継いだ五枚の皿は、洗うと小さな声を出した。
『醤油、取って』
『おかわりあるよ』
『熱いから気をつけて』
『遅くなるなら連絡して』
『一口だけでも食べなさい』
家族が長年、食卓で繰り返した言葉を覚えているらしい。
高校生の息子は、くだらないと言った。
「もっと大事な言葉はないの? 愛してる、とか」
父が皿をすすぎながら答えた。
「うちで誰がそんなこと言う」
母も笑った。
「たぶん皿が驚く」
祖父だけは、一枚ずつ声を聞いてから丁寧に拭いた。
息子が家を出る日、母は皿を一枚持たせようとした。
「割るからいらない」
「一人分くらい、ちゃんとした皿を使いなさい」
「百円の皿で十分」
結局、祖父が一番小さな皿を新聞紙で包み、鞄の底へ入れた。
新しい部屋で、息子はほとんど皿を使わなかった。
弁当の容器。
即席麺。
パンの袋。
残業が続いたある夜、冷蔵庫には卵一個しかなかった。仕方なく目玉焼きを作り、祖母の皿へ載せた。
食べ終えて洗うと、皿が言った。
『今日は、何かあった?』
聞いたことのない声だった。
父の声に似ていた。
実家では、食卓に座るたび父が同じことを聞いた。息子はいつも「別に」と答え、母が話題を変え、祖父が漬物を出した。
あれも、皿が覚えるほど繰り返していたのだ。
「別に」
一人の台所で答えると、皿は何も言わなかった。
息子は端末を取り、実家へ電話した。
「今日は何かあった?」
父が先に聞いた。
「聞き方、毎回同じだね」
「悪いか」
「別に。今日は仕事で失敗した」
電話の向こうで、母が「ご飯は食べた?」と尋ね、祖父が「漬物なら送る」と言った。
大げさな励ましはなかった。
父は自分の失敗談を始め、母は途中で夕飯の話へ逸れ、祖父は漬物の量を確認した。
翌朝、息子は目玉焼きの隣へ野菜を一つ足した。
皿を洗うと、今度は祖母の声がした。
『それでいい』
家族の温かさは、特別な言葉として残るとは限らない。
醤油を回す声や、食べたかと尋ねる声。
同じ食卓で何度も使われ、言った本人さえ忘れた言葉の中に、暮らしを支える熱が少しずつ染み込んでいる。