相続者は一名です
二十二世紀、故人の記憶は一人の相続人へだけ移植できる。
父の記憶庫を前に、三きょうだいは争った。
長兄は言った。
「会社の設計思想が入っている。後継者の俺が継ぐべきだ」
姉は言った。
「父さんの介護をしたのは私。最後の十年を知らない人に渡せない」
末弟は言った。
「二人は父さんと喧嘩ばかりだった。僕だけが普通に話せた」
端末は冷静に表示した。
〈相続者を一名選択してください〉
記憶には、仕事の技術だけでなく、幼い子どもたちを抱いた感触、妻を亡くした夜、誰にも言わなかった後悔まで含まれる。
「俺が受け取れば、必要な情報だけ共有する」
長兄が言うと、姉は笑った。
「父さんの視点で、私たちを採点するつもり?」
「介護した人間だけが父を知ってる顔をするな」
「普通に話せたんじゃない。末っ子だから、嫌な話から逃げてただけ」
三人は、父が生きていたころより激しく父を奪い合った。
移植技師が説明した。
「統合後、記憶を取り出すことはできません。受け取った方の人格に、故人の感情が混ざる可能性もあります」
「父さんになってしまうの?」
末弟が尋ねた。
「完全には。ただ、どこまでが自分の怒りか、分からなくなることがあります」
姉は端末から手を離した。
「私、父さんに愛されたか確かめたかっただけかもしれない」
長兄も画面を見た。
「俺は、会社を継いだ選択が正しかったと、父さんの記憶に言わせたかった」
末弟は俯いた。
「僕は、二人より愛された証拠が欲しかった」
端末には別の選択肢があった。
〈個人相続を放棄し、記憶庫を封印する〉
〈業務情報のみ、第三者の管理下で抽出する〉
三人は会社に必要な設計データだけを、公証技師へ預けた。
個人的な記憶は、誰も受け取らなかった。
「もったいない」
技師が言うと、姉は首を振った。
「父さんの記憶が答えになったら、私たちの記憶が全部負ける」
三人は代わりに、自分が覚えている父を一つずつ記録した。
長兄には、仕事を教えながら一度も褒めなかった父。
姉には、夜中に痛みを隠し、手だけ握った父。
末弟には、負けると将棋盤をひっくり返した父。
食い違った記録は統合しなかった。
相続者は一名も選ばれなかった。
父を一人の所有物にせず、三人が違う父を覚えたまま、争いの続きを自分たちの言葉で終えるためだった。