砂糖壺には鍵がない

井川桃子は、結婚式場の見積書を折り畳み、カフェ〈鍵穴〉の隅へ隠すように置いた。

カウンターの鳥羽紫苑は、真鍮の小さな鍵を首から下げている。砂糖壺にも同じ色の南京錠がついていた。

「鍵は、開けるために付いてます」

紫苑はそう言って、桃子のカフェモカを無糖で作った。

「砂糖、入れてください」

「甘くしたい話ではなさそうなので」

桃子は婚約者に、貯金が百万円近く減っていることをまだ言えていなかった。浪費したと思われるのが怖くて、最近買い物が多かったと嘘をついた。本当は、専門学校へ進む妹の入学金と前期授業料を払ったのだ。両親には余裕がなく、妹には返さなくていいと言った。

明日は式場の申込金を振り込む日だった。

「話した方がいいのは分かっています。でも、妹の事情まで勝手に話せません」

「相談は、お金のことですか。妹の秘密のことですか」

「両方です」

「一つにしてください」

紫苑の声は硬い。桃子が黙ると、スマートフォンケースから銀行の振込票が滑り落ちた。紫苑は拾わず、目だけで宛名を読んだ。

「秘密は隠せても、差額は隠れません」

「責めないんですね」

「責めるのは婚約者の仕事でもない。二人のお金なら、二人で次を決めるだけです」

紫苑は砂糖壺の鍵を桃子の前へ置いた。

「話す順番を逆にしないことです。妹の事情から始めると、善意で嘘を免除してもらう話になる。まず、二人のお金を相談せず使ったことを謝る。そのあと、どこまで理由を話していいか妹に確認する」

正しいだけに逃げ場がない。桃子は妹へ電話し、婚約者に話してよい範囲を尋ねた。妹は泣きながら「全部言って。私も謝る」と答えた。

次に婚約者へ、『今夜、貯金のことで話したい』と送った。すぐに『店まで行く』と返信が来る。

紫苑は無糖のモカへ、ようやく角砂糖を一つ落とした。

「鍵を開けたご褒美ですか」

「まだ開いてません」

桃子が首をかしげ、砂糖壺の南京錠へ鍵を差す。回す前に、蓋があっさり持ち上がった。錠は細い飾り紐に通されているだけで、最初から何も閉じていなかった。

「これ、鍵の意味がないじゃないですか」

紫苑は初めて口元を緩めた。

「あります。鍵があると、人は自分で開けたと思える」

入口のベルが鳴り、婚約者が息を切らして現れた。紫苑は真鍮の鍵を桃子の手のひらへ戻し、奥の二人席を示す。

「ここからは、二人で。鍵は、開けるために付いてます」