砂糖壺の中の春
倉橋莉央は、祖母の喫茶店を継ぐことになった。
問題は、看板メニューの春色プリンを作れないことだった。レシピ帳は白紙。何度も手伝ったはずなのに、分量を思い出そうとすると頭の中で古いキッチンタイマーが鳴り、そこで記憶が途切れる。祖母の店では、プリンを皿へ出した瞬間、カラメルと苺の匂いが混じった。その匂いまで失えば、店を開けても看板だけを借りることになる気がした。
榛名冬一の時計工房には、工具箱より大きな砂糖壺があった。無表情な青年は角砂糖を一個ずつ並べながら言う。
「苦い順にどうぞ」
「相談に順番が?」
「記憶にはあります」
莉央が祖母の死、店の借金、自分が料理人として働く職場を辞めたことまで話すと、冬一は角砂糖を三つ積んだ。キッチンタイマーを分解し、内側に焦げたバニラの欠片を見つける。
「これが栓です」
竜頭代わりのつまみを回すと、祖母の厨房が戻った。
卵は四つ。牛乳は鍋の線まで。砂糖は祖母の掌に一杯。鍋底を木べらが擦り、窓の外では開店前の椅子を引く音がした。莉央が「何グラム?」と訊くたび、祖母は笑ってタイマーを鳴らした。
『数字だけ覚えたら、春が変わった日に困るでしょう』
白紙のレシピ帳は、意地悪ではなかった。苺の酸味、客の年齢、雨の日の湿気。祖母は毎日、味見をする莉央の顔で分量を変えていた。
「こんなの、再現できません」
冬一は角砂糖を一つ口へ放り込んだ。
「再現する必要が?」
「看板メニューですよ」
「同じ味を出す店なら、もう閉まりました」
冷たい言い方なのに、冬一は試作用の小さな型を六個、無言で紙袋へ入れた。形が揃わなくても味を比べられるよう、すべて違う色の印が付いている。さらに修理代の代わりに渡された紙には、プリンを二十回試作できる材料費が記されていた。店の再開日に返せばいいという。
「どうして」
「苦い順にどうぞ」
最初は過去、次は失敗。最後の角砂糖を莉央の掌へ置く。
「甘いものは、あなたが決める」
春色プリンのレシピは戻らなかった。けれど莉央は白紙の帳面を開き、一行目に今日の日付を書いた。砂糖壺の中には、まだ誰の記憶にもない春が積まれていた。