祈祷書の余白は嘘を書かない

聖典披露の夜会で、聖女テレーズが祈祷書を開いた瞬間、黒い煙に包まれた。

 煙はすぐ消えたが、彼女の喉には呪印が浮かぶ。書物の余白には、エステルの筆跡で「声を奪え」と書かれていた。

「この本を閲覧したのは、エステルだけだ」

 王弟エドガーは祈祷書を閉じ、冷たい声で告げた。

「聖女への攻撃と認定し、カーレン家との婚約を破棄する」

 エステルは目を伏せた。図書塔で共に学んだ年月まで否定された気がしたが、涙をこぼす時間を犯人へ渡したくなかった。

「司書長に、貸出簿を開いていただけますか」

 灰色の法衣をまとったオズリックが前へ出る。彼はエステルの無実を主張せず、鎖で綴じられた一冊の貸出簿を卓上へ置いた。

 王立図書塔の貸出簿は、禁書に新しい文字が加わるたび、書き手と時刻を余白へ写し取る。

 該当頁を開くと、記録は一行だけだった。それは誰かの曖昧な記憶ではなく、書物自身が受け取った、消しようのない一文だった。

 午後六時四十二分。追記者、聖女テレーズ。

 エステルが祈祷書を受け取ったのは、午後七時。夜会の入場記録より後である。

「本は読者を選びませんが、書き込みの時刻は選べません」

 オズリックは貸出簿を閉じた。

 テレーズの喉の呪印が、怒りで歪む。先ほどまでエステルを避けていた人々が、今度は祈祷書から距離を取った。エドガーはしばらく言葉を失い、やがてエステルへ手を伸ばした。

「聖女が混乱していたのだろう。婚約破棄は取り消す。君は昔から物事を大げさにしない女だった。今回もそうしてくれ」

「ええ。大げさにはいたしません」

 エステルは穏やかに答えた。

「ただ、婚約を破棄されたという一文を、そのまま確定させるだけです」

「王族との縁を、一行で捨てるのか」

「一行で私を捨てた方がおっしゃいますか」

 オズリックは図書塔の鍵を取り出し、掌ごと彼女へ差し出した。

「北の封印書庫を任せたい。余白に何を書くかは、あなた自身が決めればよい」

 エステルは閉じた祈祷書をエドガーへ返し、元婚約者に背を向け、オズリックの手を取った。