祖母の鍵は返さない

神楽坂帆乃香の祖母は、冬の夜に玄関の鍵を落とした。拾った空き巣が一週間後に侵入し、揉み合いでストーブが倒れ、古い家は半焼した。祖母は腕に火傷を負い、家族は散り散りになった。

建築士になった帆乃香は、祖母の死後、過去修正AIで鍵を交番へ届けた。火事さえなければ、祖母は傷を負わず、家も残ったはずだった。

修正後、帆乃香はその家の座敷で目を覚ました。焼けなかった柱は黒光りし、仏壇には祖父の立派な遺影があった。台所では八十歳の母が、誰かに見張られているような手つきで茶を淹れていた。

火事のあと、警察は焼け跡から鍵のかかった納戸を見つけた。中には祖父が家族へ振るった暴力の記録と、母を縛った鎖があった。祖父は逮捕され、母は初めて家を出た。帆乃香が建築を志したのも、母に「逃げられる家」を作りたかったからだ。

火事のない世界では、祖父は町の名士として死に、母は五十年を介護に費やしていた。帆乃香自身も建築士ではなく、家を守る無職の娘になっていた。廊下の突き当たりには、火事の世界で警察が壊した納戸が、そのまま残っていた。新しい壁紙の下に爪で引っかいた跡があり、母は近づくだけで呼吸を浅くした。家が無傷だったのではない。傷が外から見えない場所へ戻っただけだった。

帆乃香の設計した避難住宅も、この世界には存在しなかった。そこへ入居していた何十人もの女性の名簿だけが、改変者用の記憶保護領域に残っていた。

「鍵をなくすなんて、悪い子だったねえ」

母は祖母の口調をまねて笑った。その笑い方が、帆乃香には何より怖かった。

修正AIは、日付が変わるまでなら鍵を再び路上へ戻せると告げた。そうすれば火事も、祖母の火傷も戻る。

帆乃香は母に聞いた。

「この家、残したい?」

母は柱を撫で、初めて自分の声で言った。

「燃えてくれた方がよかった」

帆乃香は取消を押した。焦げた家も、祖母の包帯も、家族が逃げた夜も戻った。

翌朝、彼女は母へ新しい家の鍵を渡した。内側からも外側からも、誰の許可もなく開けられる鍵だった。