祝辞に変えた五分間
十三時五十五分、花菱遼平は新婦控室の扉を閉めた。
胸ポケットには、二〇三四年の日付が刻まれた銀の腕時計。十年後から一度だけ戻れるはずの装置は、式の鐘が鳴るたび五分前へ彼を送り返した。
「ずっと好きだった。式をやめてくれ」
白いベールの向こうで、彼女は息を止める。
「それは私の未来? それとも、あなたの後悔?」
十四時。鐘。光。
また十三時五十五分だった。
遼平の目的は明確だった。彼女に「式をやめる」と言わせること。未来で彼女の結婚は破綻し、遼平は何度も「あの日なら間に合った」と思った。十年後の彼には仕事も住まいも、ようやく築いた人間関係もあった。それらを一度の介入で書き換える覚悟だけは、あるつもりだった。その後悔が腕時計の帰還先を固定していた。
二周目、彼は未来の住所を告げた。三周目は離婚届の日付。五周目には、まだ生まれていない子の名前まで口にした。
「ずっと好きだった。式をやめてくれ」
「私を好きなら、どうして私の十年を全部説明できるの?」
彼女の問いは、周回ごとに鋭くなった。彼が話す未来には、彼女が笑った日も、仕事を選んだ理由もなかった。破綻と、自分が選ばれなかった痛みだけだった。
八周目、彼女は静かに言った。
「あなたは私を助けたいんじゃない。選び直させたいのね」
鐘が鳴る。
九周目。遼平は同じ言葉を口にした。
「ずっと好きだった」
彼女が続きを待つ。彼は腕時計を外し、床へ置いた。銀の蓋の内側には、帰還の代償が小さく刻まれていた。
〈装置を破壊した場合、帰還元の人生は失われる〉
遼平は踵で時計を踏んだ。ガラスが割れ、未来の写真、仕事、住んでいた部屋の記憶が薄れていく。
「だから、式をやめてくれとは言わない。おめでとう」
十四時。鐘は一度だけ鳴り、時間は十四時一分へ進んだ。
控室を出た遼平には、帰るべき十年後がもうなかった。式場の係員が、見知らぬ客を見る顔で尋ねる。
「ご新郎側のお客様ですか」
遼平は割れた時計を握り、首を横に振った。