神様が大きくなりすぎた日
私は、名もない井戸の神だった。
山裾の廃村で、崩れた石蓋と蛙二匹を守っていた。
祈る者がいない神は小さい。人の姿を借りても、風が吹けば輪郭が揺れるほどだった。
直会結佐が来たのは、夏の発掘調査だった。
彼女は井戸脇の石板を洗い、消えかけた文字を一つずつ写した。
夜になると縁へ座り、私に研究の愚痴を話した。
「神様なら、御神名を教えて」
「忘れた」
「自分の名前を?」
「誰にも呼ばれなければ、神も忘れる」
結佐は笑わなかった。
それから三年、古文書と地形を調べ、私の名を探し続けた。
私は彼女へ水脈の場所を教え、雨の日には傘の内側へ入り込んだ。
人を愛したのは初めてだった。
結佐も、誰もいない井戸端でだけ、私の手を握った。
四年目の春、彼女はついに石板を解読した。
〈千流井大神〉
名を声にした瞬間、山中の地下水が鳴った。
枯れた沢に水が戻り、新聞が来て、参拝者が来た。
村跡には新しい社が建ち、毎日何百もの願いが投げ込まれた。
祈りが増えるほど、私は大きくなった。
一人の青年の姿に収まれず、山の水脈そのものへ広がった。
結佐の声も、他の祈りと同じ遠さで聞こえるようになった。
落成祭の前夜、私は残った力で井戸端へ現れた。
「成功したね」
結佐は泣きながら笑った。
「あなたの名前を取り戻した」
「そのせいで、君の名を忘れ始めている」
神は信仰されるほど、個人ではなくなる。
誰か一人を特別に愛せば、水の恵みを公平に配れない。
私は彼女の眉の形を思い出せても、初めて口づけた季節をもう思い出せなかった。
「発表を撤回すれば」
結佐が言いかけ、首を振った。
蘇った水は麓の町を救っている。
私を小さな恋人へ戻すため、再び井戸を忘れさせることなどできなかった。
「最後に願って」
私は言った。
「神様なら叶えてくれる?」
「今夜だけは、君のために」
結佐は額を私の胸へ当てた。
もう鼓動はなく、山の奥で水が流れる音だけがした。
「私を忘れないで」
私は答えられなかった。
叶えられない願いを受け取るのも、神の仕事だった。
夜明け、私は山へ広がった。
青年の姿は消えた。
祭では、結佐が復元した私の名を大勢が唱えた。
その中に彼女の声もあったが、私はもう特別に聞き分けられなかった。
ただ、彼女が井戸を去るとき、一滴だけ雨が降った。
空は晴れていた。
神となった私は、それが何を意味するのか知らない。
名もない頃の私だけが、きっと知っていた。
結佐は濡れた頬を拭かず、振り返らなかった。
人に見つけてもらった神と、神を見つけた人間の恋は、世界に知られた日に終わった。