稚鮎は川を知らない

久世瑛介の机には、海外赴任の同意書と、実家の工場の見積書が並んでいた。

シンガポールの拠点へ二年間。二十七歳で選ばれるのは名誉だった。けれど先週、父が旋盤で手を傷めた。母は電話で「こっちは平気。せっかくなんだから行きなさい」と笑ったが、その直後に届いた見積書には、古い機械の修理費が赤字で囲まれていた。

赴任を断り、工場を手伝う。そう決めた形にして、瑛介は返事を一日延ばしていた。

五月の夜、彼は実家と会社の中間にある居酒屋へ入った。季節限定は「稚鮎の天ぷら」だった。

油の中で細い魚がちりちり鳴り、青い川藻のような香りが立つ。薄衣には細かな泡が残り、皿へ置かれてもしばらく、ぱち、と小さく弾けていた。

「頭からどうぞ」

店主が言った。

瑛介は一尾を丸ごと噛んだ。頭は軽く砕け、身には淡い甘さがある。腹へ来たところで、若い草のような苦みが舌に広がった。

「まだ小さいのに、苦いんですね」

「鮎ですから」

店主は、それ以上説明しなかった。

瑛介は母の言葉を信じたいのか、信じたことにして自分の道を選びたいのか、分からなかった。逆に、赴任を断れば親孝行になるとも限らない。父は、息子に工場を継げと一度も言ったことがない。

スマートフォンで母へ電話をかけた。時刻は遅い。三回目の呼び出しで、眠そうな声が出た。

「平気かどうかじゃなくて、数字を教えて。修理費と、今月の受注と、親父が何週間休むのか。聞いてから決めたい」

母は少し黙り、「明日、帳簿を出す」と答えた。安心する数字かもしれないし、赴任を諦める数字かもしれない。

瑛介は会社の同意書をまだ送らなかった。その代わり、翌朝の新幹線を一本早めた。

通話を切ったあと、瑛介は赴任先の資料を閉じずに読み直した。工場を助ける方法が帰ることだけとは限らず、行くことが親を捨てることとも限らない。その答えを、今夜だけで美談にしないと決めた。

最後の稚鮎は冷めると、衣の音が静かになっていた。それでも腹の苦みは消えず、噛み終えたあとにだけ、身のほのかな甘さが戻ってきた。