空いた仕切り

 初鹿玻奈は、喫茶店「縫い目」のいちばん奥で、母から届いたメッセージを三度読んだ。

「来月から店を手伝えるでしょう。二階も空けておくから」

 実家は洋服直しの店だ。玻奈が服飾の学校を出てから、母は当然のように帰りを待っている。一方、今日届いた舞台衣装会社の募集要項は、経験者優遇の四文字が眩しかった。応募して落ちるより、待たれている場所へ戻るほうが、誰も傷つけない。

 この喫茶店も今週で閉まる。古いミシン台をテーブルにした店内には、閉店品として小物が並べられていた。玻奈の目に留まったのは、木製の裁縫箱だった。蓋には針の細い傷が無数にあり、中は糸巻きの幅に合わせて仕切られている。

 ただ、右端に一か所だけ、何を入れるのか分からない空間があった。

「ここ、仕切りが取れたんですか」

 店主は箱を裏返し、底を確かめた。壊れた跡はない。首を横に振ると、その空いた場所へ値札を寝かせ、蓋を閉じた。

 玻奈は会計を頼んだ。

 店主は箱の中身が動かないよう薄紙を詰めていく。糸巻きの場所、針山の場所、鋏の場所。けれど右端だけには何も詰めなかった。空きは空きのまま残し、蓋が押しつぶさない程度に紐をかける。

 その所作を見ているうちに、玻奈は自分の進路を、最初から決まった仕切りへ収めようとしていたことに気づいた。実家を嫌いなわけではない。母を見捨てたいわけでもない。ただ、まだ名前のついていない場所へ、自分の道具を置いてみたかった。

 舞台衣装会社の応募画面を開く。職歴欄は薄く、実績欄には学生時代の作品しかない。それでも写真を添付し、送信する。

 次に母への返信を打った。

「来月は戻らない。まず一社、受けてみる」

 謝罪の言葉を足しかけて、やめた。

 店主は入口のカーテンを閉め、玻奈の裁縫箱だけを会計台の上へ残していた。受け取ると、空いた一角から小さく木の音がした。

 まだ何も入っていない音だった。

 玻奈はそれを、欠けている音ではなく、これから選べる余白の音として持ち帰った。