空いていない救急通路
夕方、集合住宅の救急通路へ黒い大型車が停まっていた。
運転席には一ノ瀬谷綾臣。自分の駐車区画より玄関へ近いからと、毎日のようにそこへ置いていた。
管理人の小夜森芹央が移動を求めると、綾臣は窓を少しだけ開けた。
「十分くらいだ。救急車なんて来ないだろ。うちの車を傷つけたら、お前が弁償しろよ」
その夜、三階の高齢者が倒れた。
救急車は通路へ入れず、隊員は遠い道路から担架を運んだ。幸い搬送は間に合ったが、綾臣は車へ戻っても謝らなかった。
「結果的に助かったんだろ。大げさに騒ぐな」
翌日、大家、管理会社、消防署員を交えた会議が開かれた。綾臣は、車は五分しか停めておらず、管理人が嫌がらせで話を膨らませたと主張した。
芹央は駐車場の記録を示した。
救急通路には、ナンバー認識カメラと路面センサーがある。綾臣の車は救急要請の四十七分前から停まり、搬送後も二十分動いていない。過去三か月で同じ場所へ二十六回、合計三十四時間駐車していた。
綾臣は来客の車だと言い換えた。
入退場ゲートの映像には、すべて綾臣本人が運転する姿が残っている。救急隊員の胸部カメラにも、通路を塞ぐ車と、警笛へ反応しながらカーテン越しに外を見る綾臣の姿が映っていた。
消防署員は静かに言った。
「来ないと思った救急車は、来ます。その一度のために空けておく場所です」
大家は、再三の警告違反、消防活動の妨害、管理人への威迫を理由に契約解除通知を渡した。車両については警察と消防が状況を共有し、管理会社は今後の敷地内進入を拒否するという。
綾臣は芹央へ言った。
「俺が出ていけば、空室になる。大家だって困るぞ」
大家は首を振った。
「救急通路が空くほうが、建物には価値があります」
綾臣のナンバーがゲートの許可一覧から削除され、退去日の引っ越し車両だけが一回限り登録された。
路面センサーの表示が初めて〈通行可能〉へ変わった瞬間、空いているから停めた男の部屋だけが、本当に空くことになった。