空になった厨房

不破理久が十二枚の包丁を研ぎ終えたのは、午前五時だった。

中央厨房では、その日の全店舗分の仕込みが始まる。八乙女正臣社長は、休憩を取る者を怠け者と呼び、廃棄すべき食材を「火を通せば同じ」と戻させた。

「料理人は腕より体力だ。倒れたら次を入れる」

不破は黙って包丁を並べた。

午前六時、十二人の料理人が最後の仕込みを終え、エプロンを脱いだ。衛生上必要な引き継ぎ表を残し、全員が退職届を提出する。冷蔵庫の中身には使用期限と廃棄区分を貼り、予約済みの弁当だけは外部厨房へ引き継いだ。客を困らせず、社長だけを困らせる準備だった。

八乙女は冷蔵庫にもたれて笑った。予約客への連絡はスーパー側が引き受け、廃棄品は保健所の確認用に封印されていた。十二人は逃げたのではなく、逃げ道まで正しく表示してから去った。

「昼までに派遣を呼ぶ。チェーン店はレシピさえあれば回る」

そこへ食材卸の責任者と、大口販売先であるスーパーの担当者が入ってきた。卸会社は不破たちへ、新設する総菜工房の設備と資金を提供していた。

「来月からの総菜契約は、不破さんの工房へ移します」

八乙女の顔色が変わる。

「うちの味を盗む気か」

担当者は試食用の容器を閉じた。

「味を作っていた人と契約するだけです。あなたが作ったのは、原価表だけでしょう」

続いて保健所の職員が温度記録の確認に入り、同時に労働基準監督署が勤怠資料を求めた。冷蔵庫の記録は毎日同じ数字で、実測データとは一致しない。営業停止の手続きが告げられた。

八乙女は銀行へ電話したが、主力契約の解約と営業停止により融資条件を満たさないと返された。今月末の家賃も、食材代も、未払い賃金も払えない。

不破は厨房の鍵を責任者へ渡した。

「派遣を呼ぶんじゃなかったのか」

八乙女がつぶやく。

「呼べばいいですよ。ただし、今日からここでは料理できません」

保健所の職員が営業停止票を扉に貼り、スーパーの担当者が新工房への初回発注書へ署名した。

古い厨房の火が消えた瞬間、不破たちの新しい厨房には、全店舗分を超える注文が入った。