空席へのアンコール
失踪した歌い手の席だけが、開演前から沈んでいた。
ピアニストの榛名冴は、最前列中央の空席を見つめた。座面には圧力センサーが仕込まれ、誰かが座ると舞台の照明が一つ点く。消えた相棒・帷ミヅキが、最後の演出データに残した指定だった。
「そこにいて」
ミヅキは三か月前、全国ツアーの移動中に姿を消した。警察は自発的な失踪と見たが、冴は信じなかった。彼女は出発直前まで、この一夜限りの曲を直していた。マネージャーだけが「精神的に不安定だった」と繰り返し、捜索を早々に打ち切らせた。冴が警察へ食い下がるたび、「相棒なら本人の自由を尊重しろ」と逆に責めた。
イントロで、空席のセンサーが反応した。誰もいないのに座面がわずかに沈み、舞台左の灯りが点く。客席がざわめく。
「そこにいて」
Aメロのピアノへ、靴底で床を叩くような低音が混じった。四拍、休み、二拍。ミヅキが緊張したときに使う合図だった。冴が同じリズムで鍵盤を返すと、空席の背もたれが振動する。
マネージャーが通路から席へ近づいた。演出の故障を止めるつもりらしい。彼が空席へ手を触れた瞬間、座面が深く沈み、全照明が点灯した。
サビが爆発する。スクリーンにはツアーバスの車内映像が映った。ミヅキが眠っている間、マネージャーが彼女の端末を奪い、位置共有を切る。続いて山中の倉庫へ運び込む映像。撮影元は、ミヅキが空席の内部へ隠した小型カメラだった。
なぜ空席に映像があるのか。冴が気づいたとき、座面下から通信音が鳴った。センサーは重さではなく、特定の指紋を待っていた。マネージャーが触れたことで、暗号化された映像が解除されたのだ。
会場の扉が閉まり、通路の両端に捜査員が立つ。マネージャーは逃げようとしたが、客席のペンライトが一斉に彼を照らした。
最後の一音が消えると、空席のスピーカーからミヅキの声がした。
「そこにいて」
冴へ帰りを待っていてほしいという約束ではなかった。犯人を証拠の席に座らせ、警察が来るまで動かすなという、失踪者自身の演出指示だった。