空拍に手を打つ
二十五歳の鬼塚香苗は、二年前にダンスをやめた。社会人向けの教室で、動画を撮られた自分の動きが、隣の人より半拍遅れていたからだ。先生は何も言わなかった。それでも再生するたび、遅れだけが大きく見えた。以来、踊りたいと思う曲が流れても、膝の上で指を動かすだけにした。ダンスシューズは捨てられず、玄関の一番上に箱ごと残っている。疲れた夜ほど箱を見上げるのに、ふたを開ければ、遅れた自分がもう一度再生される気がした。
仕事では遅れないよう、誰より早く資料を出した。質問される前に答えを用意し、会議では人の言葉と同時にうなずいた。半拍のずれをなくすほど、間違いは減ったが、何かに夢中になることも減った。
休日の商店街で、徳丸志乃が三味線を弾いていた。鋭い音が店の軒先を跳ね、買い物客が自然に手拍子を始める。香苗も端で手を叩いたが、周囲より早くならないよう、隣の男性の掌だけを見た。自分の耳ではなく、誰かの正解を目印にしている。そのことに気づくと、手のひらが急に借り物のように見えた。
志乃が撥を上げた。
「音がないところに、手を打てますか」
「音がないなら、間違いになります」
「次の曲で、一度だけ空っぽの拍に打ってみて」
演奏が始まる。香苗は音の並びを追った。足元では買い物袋が風に鳴り、それさえ拍子の外へはみ出す音に聞こえた。強い音、細い音、また強い音。途切れた瞬間、怖くなって手を下げる。二度目の空白で、思い切って一度だけ叩いた。
ぱん、と自分の音が商店街に残った。遅かったのか早かったのか分からない。志乃は笑わず、その手拍子を拾うように次の一音を置いた。周囲の人も続き、曲の形が一瞬だけ変わった。
帰宅後、香苗は以前通っていた教室のページを開いた。再入会ではなく、初心者向けの一日体験がある。申込欄には〈見学のみ〉と〈参加〉の二つが並ぶ。いつもなら見学を選び、端の椅子から確かめただろう。
香苗は〈参加〉へ印をつけ、備考欄に「半拍遅れることがあります」と書いて申し込みを送った。