紙コップの冷める前
病院の自動販売機で、父の好きだった甘いコーヒーを買った。
父が亡くなったのは、その病院の六階だった。
娘は退院手続きをするように遺品を受け取り、泣く時刻を逃したまま一年を過ごした。
紙コップをベンチへ置くと、隣に父が座った。
入院着のまま、点滴の管だけがない。
「甘すぎる」
「自分で毎日飲んでたでしょう」
「死ぬと健康に気を使う」
父は、紙コップのコーヒーが温かい間だけ、病院の廊下へ戻れるらしい。
娘は両手でカップを包んだ。
冷めないように。
父は、孫のことを聞いた。
娘は答えに詰まった。
父の死後、夫婦関係が悪化し、子どもを連れて実家へ戻った。
父の介護で家を空けたことが原因ではない。
けれど、あの時期に家族の会話が壊れた。
「私、全部失敗した」
「何を」
「介護も、結婚も、仕事も」
「介護は私が死んだから終了。結婚はまだ生きてる人同士の話。混ぜるな」
父らしい乱暴な整理だった。
娘は、最期の日に病室へ行かなかったことを謝った。
夫と喧嘩し、子どもが熱を出し、翌朝行けばいいと思った。
父は夜中に亡くなった。
「待ってた?」
「待った」
胸が痛む。
父は続けた。
「でも、来ない理由を勝手に悪く考えなかった。お前は来ない日も、娘だったから」
娘は紙コップを握りしめた。
蓋の隙間から湯気が逃げる。
「心残りは?」
「退院したら、孫と屋上へ行く約束」
「それだけ?」
「それができなかったから、ここにいるんだろ」
二人でエレベーターへ乗り、屋上庭園へ向かった。
父は歩けるのに、癖で手すりを探した。
冬の空が広い。
娘は子どもへ電話し、映像をつないだ。
画面に父は映らない。
娘が、
「おじいちゃんと来る約束だった場所」
と言うと、子どもは、
「今度一緒に行く」
と答えた。
父は満足そうに立ち上がった。
コーヒーはもう冷たい。
「約束、渡したから帰る」
「どこへ」
「知らん。迷ったらまた自販機を探す」
父の姿が風へ薄れた。
翌週、娘は子どもと屋上へ行った。
夫とも話し合いを続けた。元へ戻るか、別れるかはまだ決まらない。
それでも、父の死と自分の未来を同じ失敗として閉じるのをやめた。
自販機では無糖の茶を買った。
父の分は買わない。
約束は、もう生きている二人の手に移っていた。