紙コップを持つ水神
病院の自動販売機の下に、青い髪の小さな子どもが座っていた。
入院中の夫を見舞う女性が、小銭を落として気づいた。
「水神」
子どもは名乗ったが、声はかすれていた。
「紙コップを誰かと両側から持たなければ、水を飲めない」
それが、迷い込んだ水神の決まりだった。
女性は給水機から水をくみ、紙コップの片側を持った。水神が反対側へ小さな手を添える。
二人で傾けると、水神の髪が少し明るくなった。
「なぜ一人で飲めないの」
「水は、渡るときに道になるから」
女性は病室へ戻った。
夫は手術を拒んでいる。
成功率は高くない。女性は受けてほしいと言い続け、夫は、
「私の体だ」
と怒った。
翌日、水神はまだ自販機の下にいた。
今度は夫を車椅子で連れてきた。
夫は呆れたが、三人で紙コップを持った。
水神が飲み終えると、夫が言った。
「手術が怖い。失敗して、寝たきりで君に世話されるのが一番怖い」
女性は初めて聞いた。
夫は死ぬのが怖いのだと思っていた。
実際には、妻の暮らしを奪うことを恐れていた。
「私は、あなたが決める前に、世話をする自分ばかり想像してた」
女性も言った。
「受けてほしい。でも、私だけで支えるとは約束できない」
二人は医師と相談し直した。
手術後に利用できる支援、施設、在宅サービス。
家族だけで抱えない道を一つずつ確認した。
水神は、毎日誰かと紙コップを持った。
夜勤の看護師。
面会へ来た子ども。
検査を待つ老人。
水は一口ずつ減り、そのたび見知らぬ人同士が少しだけ手の位置を合わせた。
夫は手術を受けると決めた。
結果はすぐに元通りとはならなかった。
長いリハビリが必要になった。
退院の日、自販機の下に水神はいなかった。
代わりに、未使用の紙コップが一つ置かれていた。
夫婦は給水機で水をくみ、両側から持った。
今度は水神のためではない。
夫の手が震えるので、女性が反対側を支えた。
「一人で持てる」
夫が言う。
「知ってる。でも今日は二人で」
水は、弱い人へ与える物ではなかった。
互いにどこまで支え、どこから別の手へ渡すかを決める、小さな道だった。