紫陽花の傘の下
宇留野颯介は、梅雨の日が苦手だった。
靴は濡れ、電車は遅れ、取引先では傘の置き場に困る。だから雨の予報の日は、なるべく用事を早く済ませ、真っすぐ帰る。
その日も駅へ急いでいたが、商店街の角で傘の骨が折れた。
強い風に煽られ、布が裏返る。颯介は近くの寺の軒下へ逃げ込んだ。
先客が一人いた。花屋の前掛けをした年配の女性で、両手に紫陽花の鉢を抱えている。
「見事に負けましたね」
裏返った傘を見て女性が言った。
「安物だったので」
「傘のせいにしてる」
颯介は苦笑し、骨を戻そうとしたが、一本が完全に曲がっていた。
雨脚は強くなった。
軒の向こうで、寺の紫陽花が水を受けている。青、薄紫、白。晴れの日より色が深く、葉の上の雫が小さな鏡のようだった。
「紫陽花は雨の日が本番ですね」
「人間が勝手にそう言うだけ。晴れの日も働いてますよ」
女性は鉢を床へ置き、紙袋から小さな魔法瓶を出した。
「生姜茶、飲みます?」
颯介は一瞬迷い、紙コップを受け取った。
熱い茶から、生姜と蜂蜜の香りが上がった。
濡れた袖を気にしていた肩が、少し下がる。
「雨宿りなんて、何年ぶりだろう」
「急ぐ人は、屋根があっても宿らないからね」
「今日は傘が壊れたので」
「壊れたものにも、仕事がある」
二人はしばらく、雨を見た。
女性は寺へ紫陽花を届ける途中だったという。颯介が一鉢持ち、雨が弱まったところで本堂の脇まで運んだ。
住職は礼を言い、古い傘を一本貸してくれた。紺色の大きな傘で、持ち手が木だった。
駅へ向かう道、颯介は急がなかった。
商店街の軒から落ちる雫、濡れた石畳、パン屋から流れる焼きたての匂い。いつもなら避ける水たまりにも、紫陽花の色が映っていた。
翌日、借りた傘を返しに寺へ行った。
前日運んだ鉢は、入口の両脇に置かれていた。花屋の女性も来ていて、颯介を見ると「今日は傘、勝ってますね」と笑った。
颯介は帰りに、小さな青い紫陽花を一鉢買った。
部屋の窓辺へ置くと、雨の日の匂いが少しだけ家の中へ入った。
次に雨が降った朝、颯介は駅までの時間を十分早めた。急がず歩けば、雨宿りをしなくても、濡れた町を眺める余裕があると知ったからだ。