終着駅の青い椅子
終着駅のホームには、青い椅子が三つ並んでいた。
伊吹は真ん中へ座り、発車しない終電を見ていた。車内の照明はまだ点いている。開いたドアから空調の風が細く漏れ、ホームの冷たい空気とぶつかっている。屋根では雨が同じ強さで続き、線路の向こうに水の筋を作っていた。
今夜から、この町が最寄り駅になる。
転職に合わせて引っ越した部屋は、駅から徒歩十三分。昼に鍵を受け取り、荷物を運び、最低限の箱だけ開けた。けれどカーテンの長さを間違え、窓の下が二十センチ空いている。知らない町の光が、眠るまで床へ入り続けるはずだった。
車掌が先頭から歩いてきた。座席の下をのぞき、網棚を確かめ、一本ずつドアを閉めていく。閉まるたび、空調の音が小さくなる。最後のドアが閉まると、電車は白い箱のように静まった。
その向こうで、床洗浄機が動き始めた。
清掃員が押す丸い機械の下で、ブラシが回っている。ぶうん、と一定の音を立て、濡れた床へ細い光沢を残す。椅子の前まで来ると、清掃員は伊吹へ軽く頭を下げ、少しだけ進路を曲げた。
伊吹も頭を下げた。言葉はなかった。
機械は一度遠ざかり、柱を回ってまた戻ってきた。同じ低い音。同じ回転。人がいなくなった駅を、朝のために整える仕事が続いている。
伊吹は地図アプリを開いた。部屋までの道は一本ではない。大通りを歩けば明るいが遠く、住宅街を抜ければ近いが暗い。昼には暗い道が怖いと思った。今は、どちらもただの帰り道に見えた。
清掃員が青い椅子の足元を通り過ぎる。ブラシの音に混じり、「足元、滑ります」と短い声がした。伊吹は「はい」と答え、立ち上がった。
駅の出口では、シャッターが半分まで下りていた。照明も奥から順に消えていく。町に歓迎されたわけではない。新しい部屋が急に自分の場所になったわけでもない。
それでも、雨の終着駅には、夜を片づけている人がいた。
伊吹は傘を開いた。カーテンの隙間から見える光を、今夜だけは消さずにおこうと思った。知らない十三分を、一人で歩いて帰るには、それで足りた。