終電救護室
目を覚ますと、白い制服の男が「もう大丈夫です」と言った。
終電間際のホームで胸が苦しくなり、ベンチから落ちたところまでは覚えている。男は駅の救護係らしく、私のネクタイを緩め、紙コップの水を差し出した。
「救急車は?」
「線路点検で構内へ入れません。少し待ってください」
男は聴診器を胸へ当てたが、耳には何も差し込んでいなかった。脈を測る指も、私の手首ではなく腕時計の留め具を探っていた。時計を外されそうになり、私は反射的に腕を引いた。
救護室は狭く、窓がなかった。壁の時計は文字盤だけで、針が外されている。時刻は分からない。
床下から一定間隔で振動が伝わった。列車が通過する音に似ているが、発車ベルもアナウンスも聞こえない。振動は三十秒ごとに、寸分違わず繰り返した。
男は私の鞄を膝に載せた。
「倒れたとき、茶色い封筒を持っていましたね」
「会社の書類です」
「どこへ届ける予定でした?」
救急処置とは関係のない質問だった。私は水を口へ運ぶふりをし、飲まなかった。少し甘い匂いがしたからだ。
「駅員さんの名前は?」
男は胸の名札を裏返した。
「今は話さないほうがいい。心臓に負担がかかる」
棚には駅の救護用品らしい箱が並んでいた。だが封を切ると、中身は空だった。路線図も壁に貼られているだけで、現在地を示す赤い印がない。
ドアには「関係者以外立入禁止」と貼られていたが、文字が内側から読める向きだった。救護室なら、廊下側へ向けるはずだ。
私は立ち上がった。男が肩を押さえる。
「安静に」
「ここは何駅ですか」
振動がまた来た。机の上の水面は揺れない。音だけが壁のスピーカーから鳴っていた。
私はドアを蹴った。薄い板が外れ、向こうにホームではなく、錆びた機械とコンクリートの柱が現れる。廃工場だった。床には駅のタイルを模したシートが敷かれている。
白い制服の男が無線へ言った。
「まだ封筒の場所を吐きません」
壁の時計の裏から小型カメラがこちらを向いていた。
終電で運ばれるはずだったのは私ではない。
会社の不正を記録した、あの茶色い封筒だった。