給湯室の金縁マグカップ

御厨奈々瀬は、会社でキャラクターものを使わない。高校生のころ、アニメの筆箱を見た同級生に「まだそういうの好きなんだ」と笑われて以来、好きなものは部屋の中だけに置いた。会社用のカップも、量販店で買った無地の白だけと決めていた。それが安心だった。

ところが月曜の朝、急いで鞄へ入れたマグカップを給湯室で取り出し、息をのんだ。白地に金の縁、中央には歴史ドラマ〈冬霞の城〉の軍師・景継が使う家紋。周年限定の品で、持ち手の内側に劇中の台詞まで刻まれている。

家で使うものと、会社用の無地のカップを取り違えたのだ。

戻す暇はない。奈々瀬は家紋を壁側へ向けてコーヒーを注いだ。そこへ人事課長の志筑瑛子が入ってきた。面談では一切雑談をせず、社員の噂話にも加わらない人だ。

瑛子はカップを見て、目を細めた。

「景継ですね」

奈々瀬は反射的に両手で隠した。

「弟のです」

口にした瞬間、存在しない弟が給湯室に立ったようで、苦しくなった。

瑛子は何も追及せず、棚の奥から自分のマグを出した。奈々瀬と同じ家紋。ただし長く使われ、金縁が半分ほど薄くなっている。

「私は姉のもの、ということにしていた時期があります」

「お姉さんが?」

「いません」

奈々瀬は吹き出した。瑛子も少しだけ笑った。

昼前、給湯室で二つの限定マグを見た同僚が、「課長たち、何のマークですか」と尋ねた。奈々瀬の喉が閉じる。瑛子は答えを奪わず、コーヒーを混ぜながら待った。

「好きなドラマの家紋です」

奈々瀬は自分で言った。声は思ったほど震えなかった。

同僚は「ああ、時代劇の」とだけ言い、砂糖を持って出ていった。笑いも説教も起きない。十年抱えていた防御に対して、現実は拍子抜けするほど短かった。

その午後、奈々瀬はカップの家紋を壁側から通路側へ向けた。瑛子のものと並べるつもりはなかったし、推し談義を始める気もない。

ただ、帰る前に洗った金縁の水滴を拭き、翌日も使うため、給湯室の自分の棚へ置いた。