置き傘の持ち主
昇降口の傘立てに、黄色い傘が一本だけ残っていた。
突然の豪雨で、傘を忘れた生徒はもう誰かに入れてもらったか、諦めて走って帰ったあとだった。僕は文化委員の作業が長引き、最終下校ぎりぎりまで教室にいた。
黄色い傘の持ち手には、白いテープで「ご自由に」と書いてあった。
借りていいのか迷っていると、後ろから声がした。
「それ、使えば」
同じクラスの、ほとんど話したことのない子だった。彼女は紺色の折り畳み傘を持っている。
「誰の?」
「知らない。毎年あるよ、その傘」
「学校の備品?」
「たぶん、誰かの善意」
僕は黄色い傘を開いた。内側に、小さな字がいくつも書かれていた。
〈明日返します〉
〈助かりました〉
〈骨一本曲げました、ごめんなさい〉
〈第一志望、受かりました〉
借りた人たちの書き置きだった。日付は三年前から続いている。
「変な傘だな」
「学校って、そういう変なものが残るから面白いんじゃない」
彼女は先に雨へ出た。僕も黄色い傘で追いかけた。
校門を出たところで、彼女の折り畳み傘が風にあおられた。小さすぎて、鞄もスカートも濡れている。
「こっち入れば」
「借りた傘なのに?」
「善意は二人分でも減らないだろ」
黄色い傘は大きく、二人入っても余裕があった。
駅までの道で、内側の文字を一つずつ読み上げた。彼女は、字だけで何年の先輩かわかると言い、僕は信じなかった。最後に、持ち手近くの薄い文字を見つけた。
〈雨の日に話したい人ができました〉
「これ、誰が書いたんだろう」
「さあ」
彼女は傘の外へ視線を逃がした。
翌朝、僕は黄色い傘を元の場所へ戻した。内側の空いているところに、油性ペンで一行だけ書いた。
〈昨日、話せました〉
その日の放課後、傘立てを見ると、その下に別の字が増えていた。
〈次は晴れの日に〉
見覚えのある、少し右上がりの字だった。昨日、文化委員の名簿で何度も見た字と同じだった。
窓の外には雲一つなかった。僕は傘を借りる理由もないのに、黄色い持ち手を握ったまま、彼女が来るのを待った。