署名しない夜
ニューヨークの午前九時は、東京の午後十一時だった。
瀬尾依知のテーブルには、アパートの更新契約書が置かれていた。あと一時間で管理会社の担当者が来る。署名すれば、もう一年ここに住む。
画面の向こうで、高梁冬馬が残業帰りのコンビニコーヒーを飲んでいた。
「更新するんだよね?」
「そのつもり」
「もう決めた?」
「うん」
依知はそう答えたが、契約書の横には、東京本社への異動承認メールを印刷した紙があった。
帰国できる。冬馬のいる街へ戻れる。
それを言えないのは、帰国後にうまくいかなかったとき、彼に責任を感じさせたくないからだった。海外勤務を選んだのも自分なら、終えるのも自分でなければならない。
渡米した夜、冬馬は空港で「後悔したら帰ればいい」と言った。依知は意地になって「絶対に後悔しない」と答えた。その言葉が、二年たっても帰国便より重く残っていた。
「依知」
「なに」
「俺たち、このまま一年続けるの?」
通話を区切ったわけではないのに、壁の時計が秒を刻むたび、答えを急かされた。
「続けたくない?」
「質問に質問で返さないで」
逃げ道を塞がれ、依知は契約書の署名欄を指でなぞった。
「冬馬は、帰ってきてほしい?」
「言ったら帰るの?」
「それは困る」
「じゃあ言わない」
朝の街では車のクラクションが鳴り、東京の部屋では冷蔵庫の音だけがした。
「選んだなら、応援するよ」
冬馬は笑った。その笑顔に一年分の我慢が見えた気がした。
「決めた」
依知は二度目を口にした。けれど今度は、自分に言い聞かせるためではなかった。
玄関のベルが鳴る。管理会社の担当者だ。テーブルのペンが、空調の風で契約書の上をわずかに転がった。
「もう切るね」
「うん。おやすみ」
依知は通話を終えず、玄関へ向かわなかった。契約書を裏返し、異動承認メールを手元へ引く。
「決めたんじゃない。選び直したの」
画面の中で冬馬が顔を上げた。
依知は返信欄に「国内異動を承諾します」と打ち込み、送信した。更新契約書には、最後まで署名しなかった。