肩に残る指
鴻巣至恩が別れを告げた翌日から、右肩を誰かが叩くようになった。振り向いても誰もいない。電車では背中を撫でられ、眠ると髪を梳かれた。触覚補助端末の診断は正常で、警察は「接触の記録がありません」と取り合わなかった。
元恋人は、至恩が怖がる声を聞いて笑った。
「考えすぎだよ。僕は触ってない」
確かに、彼の手はどこにもなかった。だが交際中、二人は遠隔触覚サービスを共有していた。削除したはずの接続権が、贈答契約の細則に残っていた。元恋人は通勤時刻を見計らい、存在しない指を送り続けていたのだ。
契約解除には双方の同意が必要だった。会社は「愛情表現の所有権」を理由に拒んだ。至恩は外出できなくなり、厚い上着を着ても肩をすくめた。やがて姉が訪ねてきても、触れないでと叫んだ。
姉は何も言わず、至恩の掌へ古い五円玉を置いた。
「誰かに触られたと思ったら、これを握って。偽物の手は、物を動かせないから」
至恩は毎日、硬貨の穴へ爪を立てた。肩を叩かれても、掌の重さが変わらなければ歩いた。触覚は騙されても、重力までは元恋人のものではなかった。
支援団体の面談で、至恩は同じ被害に遭った人たちと会った。頬を殴られる感触を送られた人、眠るたび首を絞められた人。傷がないため、職場も家族も深刻に受け取らなかったという。至恩は五円玉を机へ置き、「証拠がないのではなく、証拠を感じる器官を奪われた」と話した。その言葉が報道され、ようやく遠隔接触を暴力として扱う審理が始まった。
裁判で契約は無効になった。最後の刺激が消えた日、至恩の肩にはしばらく指の形だけが残った。
判決後も、至恩は触れられる前に許可を求めてもらう生活を続けた。
姉が「抱きしめてもいい?」と尋ねた。至恩はすぐには答えられなかった。五円玉を床へ置き、自分から一歩近づいた。
姉の腕は温かく、少し震えていた。偽物より不器用で、だから逃げ道があった。至恩はその震えを、初めて自分で選んだ触覚として覚えた。