自転車置き場の長い影
自転車のチェーンが外れたのは、最終下校のチャイムが鳴った直後だった。
自転車置き場には、もうほとんど人がいない。私は油で黒くなったチェーンを眺め、途方に暮れた。
「貸して」
隣のクラスの彼が、鞄を地面へ置いた。
いつも遅刻ぎりぎりに登校し、授業中は眠っている。工具を扱えるようには見えなかった。
「家、工場だから」
彼はしゃがみ、手際よくチェーンを歯車へ戻した。指先が油で真っ黒になる。
夕日が自転車の列を抜け、地面に細長い影を何本も作っていた。私たちの影も、その間で重なった。
「最近、学校休んでるよね」
私が聞くと、彼の手が一瞬止まった。
「来月で辞める」
冗談だと思った。
父親が倒れ、工場を手伝うことになったという。定時制へ移るかもしれないが、まだ決めていない。
「先生は?」
「止めてる」
「友達には?」
「言うと面倒だから」
チェーンが元の位置へはまった。
彼はペダルを回し、動きを確かめる。
「はい、直った」
私は礼を言えなかった。
明日も同じ教室にいると思っていた人が、もう来ないかもしれない。そんな話の直後に、自転車だけが簡単に直るのが腹立たしかった。
「壊れたら直せばいいみたいに言わないで」
彼は驚いた顔をした。
「何の話」
「学校」
「直るものばっかりじゃないだろ」
その通りだった。
夕日が工場の煙突の向こうへ沈み、地面の影がさらに伸びた。
「じゃあ、次に外れたらどうすればいいの」
私は自転車のチェーンを指した。
彼はポケットから小さな布を出し、手の油を拭いた。
「ここを引いて、後輪を少し回す。指は挟むな」
私はやり方を教わった。
一度外して、今度は自分で戻した。指が黒くなった。
「できるじゃん」
「次は呼ばなくていいね」
そう言うと、彼は少し寂しそうに笑った。
「呼んでもいいけど」
翌月、彼は学校を去った。
自転車置き場を通るたび、あの日の長い影を思い出した。
半年後、私のチェーンはまた外れた。
教わったとおりに直し、黒くなった手の写真を送った。
すぐに返事が来た。
『合格。次はブレーキ』
街はあの日と同じオレンジ色だった。
終わったはずの放課後が、画面の向こうで少しだけ続いていた。