航行に不要な春
【恒星船エウロペ/記憶整理記録】
対象――航法士ダクス・ノメア
神経記憶容量――安全値を十八・六%超過
削除候補――個人的自伝記憶
保存必須――航法知識、緊急操船、着陸手順
航行中の放射線障害により、ダクスの脳は全記憶を保持できなくなった。
削除しなければ、目的地到着前に言語機能を失う。
記憶技師のエリスカ・ヴァーンは、彼の恋人だった。
「技能を消して、別の航法士に任せる」
ダクスが言った。
「予備航法士は事故で死んだ。あなたが忘れれば、乗員二千人も到着できない」
「なら、子どもの頃を消す」
「人格が崩れる」
「君の記憶は?」
端末には一つの群として表示されていた。
〈エリスカ/共有期間十一年/容量十九・二%〉
初めて会った植物区画。
人工の春祭り。
喧嘩して無重力倉庫へ閉じこもった夜。
到着後、湖のそばへ家を建てる約束。
それを削除すれば、安全値へ戻る。
「私を消して」
エリスカが言った。
「嫌だ」
「あなたが着陸できなければ、私も死ぬ」
「生き残っても、君を知らない」
「知っている人に戻そうとして、操船の記憶を壊したくない」
処置前、二人は人工庭園へ行った。
船内暦では春だった。
紙で作った花が送風に揺れている。
「到着したら、会いに来て」
ダクスが頼んだ。
「行かない」
「なぜ」
「あなたは、知らない女から十一年分の愛を請求される。断れば罪悪感を持ち、受け入れれば自分の気持ちを疑う」
「それでも」
「私はあなたの生存を選ぶ。あなたの次の恋まで所有する権利はない」
二人は最後に抱き合った。
記憶装置が起動し、エリスカに関する群が一つずつ暗くなった。
【削除完了】
【航法機能安定】
再覚醒したダクスは、椅子の女性へ礼儀正しく頭を下げた。
「処置を担当してくださった方ですか」
「はい」
「泣いていますね」
「成功したので」
五か月後、エウロペは新世界へ到着した。
ダクスの操船で、二千人全員が生きて地表へ降りた。
歓迎式典で、彼は群衆の中のエリスカへ一度だけ目を留めた。
懐かしさではなく、見知らぬ人への小さな好奇心だった。
彼女は笑って会釈し、別の居住区へ向かう輸送車に乗った。
荷物の中には、人工春祭りの紙の花が一輪ある。
何を記念する物か、知っているのは彼女だけだった。
ダクスは二千人を未来へ運んだ。
エリスカは、二人の春を過去へ置いてきた。
忘れた側には別れの痛みさえなかった。
だから覚えている側が、二人分のさようならを黙って引き受けた。