若い舌の閉店日
八朔千郁は、百年続く割烹の三代目だった。
六十八歳で舌の癌が見つかると、常連客たちは店より先に彼の味覚を惜しんだ。千郁は全身交換を選んだ。二十五歳の予備肉体へ意識を移せば、舌も手も若返る。
手術後、出汁を口に含んだ瞬間、彼は吐いた。
昆布の甘みが薄い。鰹節は煙く、愛用の醤油は金属のようだった。味覚受容体は正常だと診断AIは言う。だが六十年かけて覚えた「ちょうどよさ」は、老いた舌の摩耗や歯の欠け、唾液の量まで含めた身体の記憶だった。
千郁は帳面通りに作った。客は以前と同じ味だと褒めた。けれど彼自身には、すべてが別の料理だった。
弟子の小鉢を味見しても、以前なら気づいた火入れの差が分からない。反対に、新しい舌だけが拾う青臭さや苦みもあった。衰えが消えたのではなく、六十年かけて作った基準そのものが失われていた。
妻の絃江だけは首をかしげた。
「あなた、最近、塩を怖がってる」
七十歳の彼女は味見をし、ひとつまみ足した。千郁の舌には強すぎたが、常連客は目を細めた。
若い体になってから、二人は親子と間違えられた。仕入れ先は千郁を新しい職人だと思い、古い話を絃江にだけした。千郁は苛立ち、彼女にも交換を勧めた。
「また二人で若くなれる」
「私は、あなたの味を覚えている最後の人なのよ」
その言葉に、千郁は包丁を置いた。
店を閉めると発表すると、予約は一年先まで埋まった。最終日、千郁は献立を絃江に決めてもらい、味見もすべて任せた。自分は切り、煮て、盛りつけた。
最後の椀を飲んでも、やはり昔の味はしなかった。
だが向かいで絃江が泣きながら笑い、「これ」と言った。
「私が結婚した日の味」
閉店後、千郁は料理教室を始めた。若い弟子へ店名を譲り、生徒にはレシピより先に、自分の舌を疑うことを教えた。
若返った彼には長い時間が残った。しかし、同じ味を永遠に作ることはやめた。
絃江が亡くなるまでの九年間、毎晩二人分だけを作り、彼女の「少し濃い」を聞いた。
その言葉こそ、交換できない味覚だった。