草履のつま先
祖父の家の玄関には、手のひらほどの小さな草履が一足あった。
誰の物か分からない。
捨てても翌朝には、靴箱の下へ戻っていた。
祖父が足を悪くし、娘が仕事を辞めて同居を始めた頃、草履のつま先が毎朝、家の中の誰かを向くようになった。
最初は祖父だった。
娘は散歩へ連れ出し、病院を変え、玄関に手すりを付けた。
祖父は「家から追い出す気か」と怒ったが、草履はずっと祖父を向いていた。
「外へ出たいんじゃない?」
孫が言った。
祖父は本当は、昔の碁仲間が集まる公民館へ行きたかった。
転ぶのが怖くて言えなかったのだ。
週に一度通うようになると、草履の向きは変わった。
次は孫を向いた。
受験生の孫は、家族に心配をかけまいと志望校を近くへ変えていた。
本当は遠い町の学校へ行きたかった。
娘は寂しかったが、
「行きたいなら行きなさい」
と言った。
合格通知が届くと、草履はまた別の方へ向いた。
今度は、娘だった。
娘は笑った。
「私は出ないよ。おじいちゃんがいるし」
翌朝も草履は娘を向く。
祖父が碁から帰った日も、孫が願書を出した日も変わらない。
娘は介護を嫌だと思ったことを、一度も口にしていなかった。
祖父を大切にしたい。
同時に、仕事へ戻り、友人と旅行し、一人で眠りたい夜もあった。
その気持ちを持つだけで、恩知らずだと思っていた。
祖父が草履を拾った。
「お前も公民館へ行け」
「何しに」
「家にいない練習だ」
家族は介護サービスを増やし、近所の親戚にも頼った。
娘は週二日、以前の職場へ戻った。
最初の休日には、一人で隣町の映画を見た。
帰宅して玄関を開けると、草履のつま先は誰も向いていなかった。
やがて祖父は施設へ移った。
娘は罪悪感で泣いたが、祖父は、
「家を出たかったのは、わしの方だ」
と言った。
同じ年頃の仲間がいる場所を、本人も気に入っていた。
空になった家を売る日、小さな草履だけは娘が持ち出した。
新しい部屋の玄関へ置く。
今は壁を向いている。
出たいと思うことは、家を嫌うことではない。
帰れる場所を持ったまま、外へ向けるつま先もある。
草履は家族に、それを一人ずつ教えた。