薪を割る音が止まるころ

 岡之上崇文は、都内の救急病院で看護師をしていた。

 眠れない夜も、食べられない朝も、誰かの役に立てるなら動けた。けれど退職した翌月、雪国の古民家へ移ると、役に立たなくても朝が来ることに戸惑った。

 最初の冬、薪ストーブの火はすぐ消えた。

 薪は湿り、煙突は煤け、室内へ白い煙が逆流する。崇文は説明書を読み、動画を見て、夜中まで何度も火をつけ直した。

 近所の炭焼き職人は、積まれた薪を一つ持ち上げた。

「重い。まだ水を抱えてる」

「乾くまで待てません」

「木に急げと言っても、病棟みたいには走らんよ」

 二人で軒下へ薪棚を作った。

 古い板を渡し、屋根をつけ、風が抜ける隙間を残す。崇文は釘をまっすぐ打とうとして何本も曲げた。職人は抜かず、曲がった釘を横から叩いて板へ沈めた。

「使えればいい」

 その言葉に、崇文は何度も救われた。

 乾いた薪を割ると、甲高い音が山へ返った。

 崇文は夢中になり、日が傾いても斧を振った。職人が帰り際に言う。

「今日はもう十分だ」

「まだ割れます」

「薪は逃げん。腕は明日も使うだろ」

 斧を置くと、急に静けさが戻った。

 自分が休むと何かが遅れる気がしていた。病院では実際、そういう夜もあった。けれどここでは、割らなかった丸太がただ雪をかぶるだけだった。

 崇文は台所で牛乳を温め、擦った生姜と少しの蜂蜜を入れた。

 ストーブには、昨日から乾かしておいた細い薪を組む。今度の火は小さいが安定し、鉄の扉の向こうで橙色に揺れた。

 濡れた手袋を椅子へ掛け、毛布へ足を入れる。

 薪棚の端には、今日割らなかった丸太が五本残った。崇文は数えただけで、斧へ手を伸ばさなかった。

 翌朝、薪棚の屋根に薄い雪が積もっていた。

 崇文は急いで落とさず、まず白湯を飲んだ。窓の外から、誰かが遠くで薪を割る音が一つだけ届く。

 部屋には昨夜の煙と生姜の甘い香りが残り、ストーブの灰はまだぬるかった。

 火を絶やさないことより、消えたらまたつければよいと知ることの方が、今の崇文には温かかった。