親指のくぼみ

生駒雪乃が珈琲店「胡桃」を訪れたのは、友人から届いた長い謝罪文を読み終えたあとだった。

友人の言葉はひどかったが、雪乃も黙ってはいなかった。相手がいちばん隠したがっていた失敗を持ち出し、言い返した。傷つけられた側だけでいられないことが、返事をさらに難しくしていた。

仲直りではなく、話す約束だけならできるかもしれない。雪乃はその小ささを、逃げとは呼ばないことにした。

大学から七年付き合った友人と、半年前に絶交した。雪乃の転職を「逃げ」と言ったことがきっかけだった。相手は謝り、言い訳をせず、会いたくなければ返事はいらないと書いていた。

返さないことにも理由はあった。許したと思われたくない。以前の関係へ戻れるとも思えない。それでも、未読のままにした画面を一日に何度も開いていた。

店主が出した飴色のカップは、持ち手だけ色が違って見えた。上側が淡く、内側には小さなくぼみがある。雪乃の親指が、驚くほど自然にそこへ収まった。

長く使われるうち、釉薬が薄くなったのだろう。誰か一人の指ではなく、数えきれない手が同じ場所を押さえ、硬い陶器を目に見えるほど変えていた。

雪乃は持ち方を変えてみた。くぼみを避けると、カップは少し傾いた。親指を戻すと安定した。

店主は遠くで豆を挽いていた。雪乃が空のカップを置くと、すぐには下げず、持ち手のくぼみを乾いた布で丁寧に拭いた。黒ずみを削るのではなく、指が次に触れる場所を整えるような手つきだった。

会計で、店主は釣銭を雪乃の右手へ置いた。その親指には、カップの丸みがまだ残っていた。

店を出てから、雪乃はアーケードの端で立ち止まった。謝罪文をもう一度読み、返信欄を開く。

〈前と同じには戻れないと思う〉

そこまで打って、冷たすぎる気がして消そうとした。けれど消さず、続きを足した。

〈それでも、一度会って話したい。来週の日曜は空いてる〉

送信したあとも、胸の中の固い部分は消えなかった。ただ、指を置ける小さなくぼみが一つできた。

雪乃は返事を待たず、日曜の予定表に一時間だけ空白を作った。