触れる前に尋ねる手

治癒師カイレンは、人に背後から触れられるのが苦手だった。

奴隷市場で拘束された記憶が、手首に残っている。

魔王アゼルヴァは、初めて彼を城へ連れてきた日から一度も勝手に触れなかった。外套を掛けるときさえ、「肩に触れていいか」と聞く。

そのくせ、敵には容赦がない。大陸最強の勇者を片手で地へ沈めた男が、カイレンの袖口を直す許可だけは待ち続ける。

「今日は寒い。留め具を直していいか」

「はい」

指先が一瞬だけ布へ触れる。金属が肌に当たらないよう、魔王は革の留め具へ替えていた。カイレンが鉄の冷たさを嫌うことも覚えている。

その日、魔王城では戦勝治癒祭が開かれた。

祭司たちは民衆の前で、カイレンにアゼルヴァの角へ触れさせようとした。人間の治癒師が魔王へ忠誠を誓う儀式だという。

「手を置きなさい」

祭司がカイレンの腕をつかむ。

次の瞬間、祭司の足元に深い亀裂が走った。

「離せ」

アゼルヴァの声は低かった。世界を焼ける魔力が、ただ一人の手首を守るために集まっている。

祭司は青ざめて手を放す。

「ですが陛下、儀式を拒めば彼の忠誠が疑われます」

カイレンは自分の手を胸元へ戻した。

「私は忠誠を誓いません。ここにいるのは、いたいからです」

観衆がざわめく。

大臣が叫んだ。

「ならば明日、彼が去ると言えばどうなさる!」

アゼルヴァは即答した。

「門を開ける」

「陛下ほどの御方が、人間一人に選ばせると?」

「余ほどの力があるからこそ、縛る必要がない」

魔王はカイレンへ手を差し出した。だが触れず、空中で止める。

「ここから降りたいか」

「はい。人が多すぎます」

「手は要るか」

カイレンは少し考え、自分からその手を取った。

アゼルヴァは祭壇を下りると、全祭司へ命じた。

「忠誠儀式を廃止する。カイレンの身体に触れる前には、誰であろうと本人へ許可を求めよ」

最強の魔王の手の中で、彼の指は少しも締めつけられなかった。

「余の愛を、彼の拒否権より大きいものとして扱うな」