読み飛ばされた詩

 御子柴灯子が古書喫茶「微睡」で手に取った詩集は、恋の言葉ばかりが鉛筆で囲まれていた。

「永遠」「口づけ」「運命」。丸は頁を進むほど濃くなり、ときどき二重線まで引かれている。前の持ち主は、誰かを思いながら読んだのだろう。

 けれど、灯子が足を止めたのは、何も印のない短い詩だった。朝のバスで吊革を握り、知らない人の傘から落ちる雫を見ているだけの六行。頁の下端には、本文と見分けがつかないほど薄い字で、「ここだけ今の私」と書かれていた。

 灯子は、投稿用の詩を二つスマートフォンに保存している。一つは、読まれやすいと分かって書いた失恋詩。比喩も整い、友人に見せると「刺さる」と言われた。もう一つは、残業帰りにコンビニの袋を持って歩く自分を書いたものだった。劇的なことは何も起きない。締切を前に、編集画面では後者を消そうとしていた。

 恋愛をしていない二十六歳の女が、恋の詩を書いたほうが反応をもらえる。そこに嘘があるとは言い切れない。想像で書くことも創作だ。ただ、自分の暮らしを先に読み飛ばす癖が、少しずつ文章の外でも続いていた。

 閉店の鐘が鳴る前、店主は店内の音楽を止めた。故障かと思ったが、針を上げただけだった。無音になると、冷蔵庫の低い唸り、路地を曲がる自転車のベル、灯子が頁を戻す音が聞こえた。

 会計で詩集を差し出すと、店主は何も印のない六行の頁に、細いレシートを挟んだ。恋の言葉が囲まれた頁ではない。灯子が長く開いていた場所を、指の跡で覚えていたらしい。

 包装紙には紐をかけず、端を一度だけ折った。家へ着くまでに開いてしまいそうな、弱い包みだった。

 灯子は店の隅で投稿画面を開き、失恋詩の添付を外した。代わりに、コンビニの袋が膝へ当たる音を書いた詩を選ぶ。題名はまだなかった。

 送信すると、反応数はまだ零のままだった。灯子は更新ボタンを押さず、スマートフォンを伏せた。店主が入口の札を裏返した。外の音が遠くなり、冷蔵庫の唸りだけが残った。

 灯子はその音を、次の一行として忘れないよう、スマートフォンのメモへ書き足した。