誰にも呼ばれない矢
城壁の上で、ヤシュナは五本目の黒矢を番えた。
悪魔ベルドとの契約で、その矢は必ず狙った者へ届く。ただし一射ごとに、彼女を知る人間を一人選び、その者の記憶からヤシュナという存在を消さなければならない。
敵軍の破城槌が門へ迫っていた。四本の矢で、槌隊長、火術師、旗手、巨人使いを倒した。その代価に、母、師、幼なじみ、妹が彼女を忘れた。
城下の窓辺で、妹は見知らぬ弓兵を見上げている。
残る標的は、敵将クェイル。彼が角笛を吹けば、死者の軍勢が門を越える。
「最後の代価を選べ」とベルドが弦の上で囁いた。
ヤシュナを覚えている者は、もう一人しかいない。城門隊長。恋人。昨夜、戦いが終わったら海を見に行こうと言った男だ。
彼は城壁の下で盾を掲げ、彼女へ叫んだ。
「撃て、ヤシュナ!」
名前が届いた。その一声だけで、手が震えた。
「彼を忘れさせたら、私は誰になる」
「知る者のいない名は、音ではなくなる」
クェイルが角笛を口へ運ぶ。
ヤシュナは恋人の記憶を差し出した。
黒矢を放つ。
風向きが変わり、矢は盾の隙間と兵の列を縫い、敵将の喉へ吸い込まれた。角笛が落ちる。死者の軍勢は糸を切られた人形のように崩れた。
城門が開き、味方の歓声が夜を押し返す。
恋人だった男が階段を駆け上がってきた。ヤシュナは弓を下ろし、笑おうとした。
男は彼女の前で足を止めた。
「援軍の方か。見事な腕だ」
彼女は名乗った。
「ヤシュナ」
男は聞き返した。
「今、何と?」
もう一度言う。唇は確かに動くのに、名前だけが風に混じって届かない。腕に彫っていた自分の名も、一本目の矢から一文字ずつ薄れ、今は滑らかな皮膚しか残っていなかった。
城兵たちは黒矢の射手を探していた。彼女のすぐ隣を通り、誰も目を留めない。
ベルドが空になった矢筒から立ち上がる。
「約束どおり、矢は外さなかった。おまえも世界の記憶から外れた」
城は守られた。門の上には勝利の旗が上がった。
その下で、誰にも呼ばれない女だけが、自分の名をまだ知っている最後の者になった。