譲らない申請書
社内公募の締切は、午後十一時五十九分だった。
真帆が申請書を印刷すると、プリンターの横に准平がいた。二人とも狙っているのは、ロンドン支社の新規事業責任者。一席しかない。
「添付、抜けてるよ」
准平が真帆の書類を指した。市場分析の別紙が、出力されていなかった。
「見なかったことにすれば勝てたのに」
「そんな勝ち方、いらない」
時計は十一時四十二分。再印刷し、署名し、上階の投函箱へ入れるまで十七分。
真帆は准平が好きだった。企画会議でぶつかるたび、悔しいほど考えが磨かれた。けれど今告げれば、彼が席を譲るかもしれない。あるいは、譲らない自分を冷たいと思うかもしれない。それが怖くて黙っていた。
去年の社内コンペでは、准平が一票差で勝った。表彰後、真帆は悔しさで拍手が遅れた。彼は祝勝会へ行かず、彼女の没案に付箋を貼って返した。〈ここの数字だけは、俺の案より強い〉。その一文を真帆はいまだに手帳へ挟んでいる。恋人になれば、勝敗を慰め合う関係になるのか。そんな優しさなら要らない。彼には、勝ったとき本気で悔しく、負けたとき本気で腹の立つ相手でいてほしかった。
「私、譲らないから」
「知ってる」
「好きな人が相手でも」
言ってから、真帆は息を止めた。
准平は驚いた顔をしたが、聞き返さなかった。代わりに自分の申請書を持ち上げる。
「俺も譲らない」
「じゃあ、その署名は?」
彼の最終ページは空欄だった。
准平が舌打ちし、二人は同時にペンを探した。真帆は一本しかないボールペンを渡す。
「先に書いて」
「譲るの?」
「時間を分けただけ」
エレベーターは点検で停止中だった。二人は書類を抱え、非常階段を駆け上がる。十一時五十六分、十階。息が切れ、准平が笑った。
「ロンドン、どっちが行っても恨まない?」
「譲らない」
二度目は、仕事だけの意味ではなかった。
「席も、あなたの隣も。勝手にどちらか一つにしない」
投函箱の前で、二人は互いの書類を確認した。
十一時五十八分。真帆は准平の封筒を、准平は真帆の封筒を、それぞれ同時に投函した。