豚軟骨はまだ固い

真鍋剛志は、地方銀行の最終出勤を終えた夜、居酒屋「とまり木」で携帯電話を伏せていた。画面には、入行以来の上司である支店長の番号が出ている。

 明日から、融資審査を自動化する金融系ベンチャーへ移る。銀行では、紙の決算書を読み、社長の顔を見て金を貸すか決めてきた。転職先は、その判断を数字へ置き換えようとしている。面接で剛志は、「人の勘に頼る部分を減らしたい」と話した。支店長が聞けば、育てた部下に仕事を否定されたと思うかもしれない。

 新人のころ、赤字続きの町工場へ融資するか迷った剛志に、支店長は決算書を閉じて『数字を疑え。ただし、数字の外を勝手に美談にするな』と言った。その言葉を、剛志は転職面接でも使った。

 退職の挨拶では、転職先の名前を言えなかった。「次も金融です」とだけ伝えると、支店長は「そうか。困ったら連絡しろ」と答えた。

 店主が豚軟骨の塩煮を小鍋からよそった。澄んだ湯気に、生姜と葱の匂いが混じる。煮汁は表面でふるふる揺れ、箸を入れた肉は柔らかく離れたが、白い軟骨にはまだ確かな抵抗があった。

「骨まで溶けると思ってました」

「これは残る」

 店主は短く言い、鍋の火を弱めた。

 剛志は電話をかける理由を探した。許してもらいたいのか。正しい転職だと言ってほしいのか。支店長の承認を得てからでなければ、新しい会社へ入れない気がしていた。

 だが、支店長がどう答えても、明日の入社は変わらない。ならば許可を求める電話ではなく、報告をする電話にすればいい。

 剛志は番号を押した。呼び出し音のあと、支店長が「忘れ物か」と出た。

「転職先、融資審査のシステムを作る会社です。今まで教わったことを、なくすためじゃなくて、残すために行きます」

 向こうはしばらく黙り、「明日早いだろ。詳しくは今度聞く」とだけ言った。

 詳しく話す日が来るかは分からない。新しい会社で銀行の常識が邪魔になるかもしれない。それでも剛志は、軟骨をゆっくり噛んだ。塩味の奥に生姜の熱があり、最後まで消えない硬さが歯に残った。