赤いしつけ糸
平良美砂には、病院を出られる一日で直したいものがあった。同居人の黒いパンツの裾だ。
翌朝、同居人は転職面接へ行く。昨日、試着した拍子に裾の糸が切れ、右だけ二センチ垂れた。安全ピンで留めればいい、と本人は言ったが、美砂は裁縫箱を鞄へ入れて外出届を出した。
部屋へ戻ると、黒いパンツはダイニングチェアの背に掛けてあった。同居人は仕事で不在。テーブルには「無理しないこと」と書いた付箋と、ペットボトルの水が一本置かれている。美砂は付箋を裁縫箱の蓋へ貼り直した。
裾を裏返すと、切れた糸が細い髭のように残っていた。まず赤いしつけ糸で折り幅を決める。黒い布に赤はよく見える。指先が震えるたび、針は予定より外へ出た。病室で点滴の管を扱うより、布のほうがずっと気難しい。
一周縫うだけなのに、途中で二度休んだ。窓の外では宅配便の車が止まり、上の階で掃除機が動く。美砂は椅子へ深く座り、赤い点が並んだ裾を眺めた。面接官はこんなところまで見ないだろう。それでも歩くたび片方だけ揺れるのは、同居人が気にする。
黒糸を通し、赤い印の内側を小さくすくった。表へ針目が出ないよう、布の繊維を一本ずつ拾う。集中すると、戻りの時間も、鞄の薬も、しばらく遠くなった。
面接用のパンツは、美砂が去年の誕生日に選んだものだった。値段より、座った時に膝が光らない生地を探した。買った本人より同居人のほうがよく着て、裾だけが先に弱った。美砂は縫い目を二針戻し、ほどけにくいよう重ねた。
最後の針を抜いたところで、玄関の鍵が回った。
「ただいま。まだやってたの」
「もう終わる」
美砂はパンツを表へ返し、椅子の背へ掛けて、両脚の長さを床の線に合わせた。同居人は向かいにしゃがんだが、礼も心配も口にせず、垂れていた右裾を指で撫でた。左右の折り目は、同じ高さで止まっていた。
美砂は赤いしつけ糸の端をつまみ、一本につながったまま、するすると抜いた。黒い裾から最後の赤が消えたところで、糸を鋏で切った。