赤いガムテープの境界線

 舞台の床には、赤いガムテープで小さな十字がいくつも貼られていた。

 文化祭のクラス劇で、役者が立つ位置。照明が当たり、客席から顔が見え、書き割りの影にも入らない場所。

「有働、そこじゃない」

 演出係の笠原椿が、客席から声を飛ばした。

 王子役の有働蒼介は、一歩右へずれた。

「行きすぎ。左」

 一歩戻る。

「戻りすぎ」

「十字が小さいんだよ」

「舞台が狭いの」

 前日の最終リハーサル。ほかのクラスメートは衣装の直しや小道具探しで散り、体育館には二人の声だけが響いた。

 問題の場面は、王子が姫へ想いを告げるところだった。

「もう一回。位置から」

 蒼介が赤い十字の上に立つ。椿は台本を持ったまま舞台へ上がり、休んでいる姫役の代わりに向かい合った。

「『私は国ではなく、あなたを選ぶ』」

「声が軽い」

「国、選んだ方がいいと思ってるから」

「役の気持ちで言って」

「じゃあ笠原が姫の気持ちになってよ」

「私は演出」

「相手が台本しか見てないと、告白しにくい」

 椿は仕方なく顔を上げた。

 蒼介はもう一度、同じ台詞を言った。

 今度は声が低く、体育館の奥まで真っ直ぐ届いた。ふざけた響きが一つもなくて、椿は次の指示を忘れた。

「どう?」

「……立ち位置が違う」

「合ってるだろ」

 蒼介の靴は、赤い十字から半歩前に出ていた。二人の距離は、台本に書かれたものより近い。

「照明から外れる」

「今は点いてない」

「本番で困る」

「本番は姫に言うから大丈夫」

 胸の奥が、舞台の床みたいに空洞の音を立てた。

 椿が台本へ目を落とすと、蒼介はさらに半歩進んだ。赤い線を完全に越える。

「でも今は、笠原に言った」

 体育館の時計が六時を告げ、頭上の照明が自動で半分消えた。

 暗くなった舞台で、赤い十字だけが非常灯に浮かんでいる。

「位置、戻って」

 椿は言った。

「演出として?」

「……明日の劇が終わるまでは」

 蒼介は笑って、十字の上へ戻った。

 文化祭本番、告白の場面で彼は一歩も位置を外さなかった。客席は大きく拍手した。

 けれど椿が覚えているのは、完璧な本番ではない。

 照明の消えた前夜、彼が赤い境界線を越えた、たった半歩のことだけだ。