赤い傘の返却
豪雨で配達を中断した七里木怜央は、高架下の階段へ逃げ込んだ。地下には小さなホームがあり、駅名標に「雨返」と書かれていた。地図にも鉄道会社のサイトにも載っていない。
配達員のグループチャットへ写真を送ると、引退した運転手がすぐ電話をかけてきた。
「そこに赤い傘の客がいても、傘を貸してはいけない。透明でも黒でも、一本渡したら向こうは赤い傘を返しに来る」
理由を尋ねる前に通話は切れた。
ホームには怜央しかいなかった。時刻表には発車時刻の代わりに「貸出」「返却」の二列があり、返却欄だけが何十年分も空白だった。線路は浅い水に沈み、雨粒が地下の天井から落ちている。ベンチの前で配達バッグを拭いていると、いつの間にか女が立っていた。
古い赤い傘を差し、裸足だった。顔は傘の影で見えない。
「一本、貸してください」
女はそう言って、怜央のバッグ脇に差した黒い折り畳み傘を指した。
「この傘が破れて、帰れないんです」
怜央は断ろうとした。だが、女の声が十年前に亡くなった母に似ていた。熱を出した日の夜、薬局へ走ってくれた時と同じ、少し息の上がった声だった。
貸すだけなら、と傘を渡した。
女は「明日の朝までに返します」と言い、線路へ降りた。赤い傘と黒い傘が重なると、二本とも闇の中へ消えた。
次に目を上げた時、怜央は高架下の階段に立っていた。雨返駅の入口はコンクリートの壁になっている。
午前二時十三分、自宅で眠りかけたころ、スマホのインターホンアプリが鳴った。
《訪問者を検出しました》
画面いっぱいに赤い傘が映っていた。人物認識の枠は傘の下を何度も探し、やがて名前を表示した。
《七里木怜央》
怜央は自分が室内にいることを確かめた。カメラの向こうの男は、配達用ジャケットを着ていた。右手には、貸したはずの黒い傘がある。
スピーカーから、怜央自身の声がした。
「傘を返しに来ました」
画面の男が顔を上げる。怜央と同じ顔だったが、口元だけ母に似ていた。
インターホンの自動応答が、普段どおりの明るい声で返した。
「お帰りなさい。玄関を解錠します」