赤い安全帽

十一時二十五分。鋳方遼一は橋脚の検査台へ上がった。

足元を赤い安全帽が転がる。現場監督が怒鳴った。

「顎紐、締めろ。五分後には打設だ」

十一時三十分までに検査票へ承認印をもらう。それが遼一の目的だった。遅れれば一日四百万円の違約金。父から継いだ下請け会社は、その一日で資金が尽きる。社員二十七人の給与日は三日後。事務所の金庫には、父が最後に使った朱肉と、その朱肉で押された借用書が並んでいた。

試験値は基準をわずか二パーセント下回っている。誤差と言い張れる幅だが、供試体の表面には不自然な白い粉が浮いていた。遼一はそれを手袋で払い、コンクリートの試験値を示し、監督の赤印を受ける。印面が紙へ触れた瞬間、ミキサー車の警笛が鳴った。

十一時二十五分。安全帽がまた転がった。

二周目は試験表の低い数値を折って隠した。三周目は別ロットの供試体と入れ替えた。四周目は監督へ、今夜の接待を約束した。どれも印鑑が下りる寸前で戻る。

「顎紐、締めろ」

五周目、遼一は橋脚の継ぎ目に細い黒線を見つけた。ひびではない、と最初は思った。爪を当てると、湿った粉がこぼれた。配合ミスによる初期剥離。承認すれば打設後には見えなくなる。

父なら押させただろう。会社を守るのが経営だ、と言う人だった。遼一も昨日までは同じ意味でうなずいていた。橋の寿命より、来月の支払いのほうが具体的だったからだ。

六周目、遼一は黒線を塗料で埋めた。監督は気づかず、印鑑を持つ。会社は残る。橋も立つ。成功まで、あと一秒。

赤い安全帽が風で転がり、黒線にぶつかって止まった。

遼一は検査票を引き抜いた。承認欄ではなく判定欄へ、大きく「不合格」と書く。自分の一級土木施工管理技士印を押し、打設停止ボタンのカバーを割った。

警報が現場を貫く。

「お前、会社を潰す気か!」

「たぶん、今日で潰れます」

十一時三十分。ミキサー車は止まり、時計は三十一分へ進んだ。

監督の怒声と違約金通知が同時に届く。遼一は赤い安全帽を拾い、顎紐をきつく締めた。父の会社名が印刷された帽子をかぶるのは、これが最後になるかもしれなかった。