赤字注文を断る昼
正午の社員食堂で、計算機が乾いた音を立てた。
「一食三百八十円。赤字でも売上が立てば、銀行は安心しますよ」
営業本部長の国枝が、前の人生と同じ銀色の計算機を葛城菜央の前へ滑らせる。大手イベント会社から届いた十万食分の弁当契約。受注額三千八百万円。数字だけなら、地方の給食会社を救う大型案件に見えた。
だが前回、社長の菜央が署名すると、追加仕様が次々に発生した。保冷車、深夜配送、特別容器。実際の原価は一食五百六十円。納品を終えた頃には現金が尽き、イベント会社は支払いを半年延期。銀行は融資を引き揚げ、会社は売れば売るほど速く破綻した。
菜央は従業員へ廃業を告げた翌朝から、この昼休みへ戻っていた。
国枝が契約書の付箋を指す。
「ここです。社長印だけで間に合います」
菜央は計算機を受け取り、前回は打たなかった数字を入力した。
五百六十、引く、三百八十。
表示はマイナス百八十。容器代も深夜手当も、国枝の試算には一円も入っていなかった。
「十万食で、千八百万円の赤字ね」
「将来への投資です」
「違う。うちを空にして、支払い前に安く買う計画でしょう」
菜央は契約書の末尾を開いた。イベント会社による優先買収権。その仲介者欄には、国枝の個人会社名がある。
食堂のざわめきが消えた。
「この注文は断ります。それから国枝さん、あなたの端末と社用印を返してください」
国枝は笑おうとして失敗した。
「断れば今月の売上がなくなるんですよ」
「利益のない売上なら、ないほうがいい」
菜央はその場で既存顧客へ原価上昇を説明し、適正価格への改定を送った。前回は怖くてできなかったことだ。
十二時二十分。かつて銀行から「追加融資否決」が届いた時刻。スマートフォンが震える。
『主要三社、価格改定を承認。年間粗利見込み、二千百万円増』
さらに保育園の園長から返信が来た。
『安くなくて構いません。来月も、子どもたちの昼食をお願いします』
菜央は銀色の計算機を伏せた。
食堂の厨房から、午後分の炊飯器が炊き上がる音がした。