返却期限は晴れた日

「晴れた日に返してください」

レコード店《月舟》で傘を借りたとき、店主の城戸景雅は桑折依茉へそう言った。

それは六月の初めだった。依茉は翌週、雨の中で傘を返しに来た。

「今日は雨です」

「でも、借りたままは落ち着かなくて」

「では、また持って帰ってください」

そんなやり取りを何度も繰り返した。傘の内側には店の名前が小さく印刷され、開くたび、依茉には景雅から呼び止められているように見えた。依茉が仕事で疲れた夜に限って雨が降り、店へ行けば景雅が古いジャズをかけ、温かい紅茶を出した。二人は閉店後まで話したが、関係を聞かれれば、店主と常連客だった。

七月末、《月舟》が閉店すると張り紙が出た。

建物の取り壊しが決まり、景雅はしばらく店を持たないという。依茉は傘を返せないまま、会う理由だけを失いそうになった。

最終営業日も雨だった。店先の紫陽花は色を失いかけ、看板の文字には細い水の筋が流れていた。

棚は空になり、レジの横には段ボールが積まれている。依茉は借りた黒い傘を畳み、カウンターへ置いた。

「今日で最後だから。受け取ってください」

「雨の日は受け取れません」

「もう店、なくなるのに」

「だから困っています」

景雅はレジから小さな紙を取り出した。新しい連絡先と、翌週土曜の喫茶店の住所。時刻の横には《二名》と書かれている。

「店がなくなったら、あなたは来ないでしょう」

「常連客ではなくなるから?」

「それ以外の呼び方を、まだ決めていないので」

依茉は紙を受け取る代わりに、傘を開いた。店内で開くなんて、と景雅が笑う。依茉はその腕を引き、二人で軒先へ出た。

雨粒が黒い布を打つ。

「来週、晴れ予報です」

依茉はスマホで喫茶店を予定へ入れ、参加者名を《依茉》《景雅》にする。景雅の手を傘の柄から外し、そのまま自分の手へつないだ。

「その日に返します」

「傘を?」

「それは、また次の雨まで借ります」

景雅が初めて「依茉さん」と呼んだ。依茉はつないだ手を離さず、閉店した店の前を歩き出す。

晴れた日に返すものは、傘ではなかった。

客と店主という呼び名を返し、二人は次の土曜日を受け取った。