退職と同時に忘れます
蒔田奏汰は出社すると、社員証をかざして昨日の記憶を読み込む。顧客名、進行中の案件、上司の指示。勤務時間中に生じた記憶は会社が保管し、在籍中だけ利用できる。企業秘密を持ち出させないための、たった一つの規則だった。
奏汰はその仕組みを便利だと思っていた。休日に仕事を思い出さずに済む。月曜の朝には必要なことだけ戻ってくる。別れた恋人からは「会社に人生を預けすぎ」と言われたが、仕事と私生活を完全に分けられるのは健全だと答えた。
同期中、隣の空席へ目が止まった。机には小さな白い花が置かれている。誰の席か思い出せないが、胸の奥が重くなる。花の水だけは毎朝、自分が替えていたらしい。手順の履歴に残っていた。
午前九時、全社員へ通知が届いた。
〈事業再編に伴い、本日付で契約を終了します〉
〈退館時に社有記憶を返却してください〉
突然の解雇だった。同僚たちは騒いだが、奏汰は白い花のことだけが気になった。社内検索で席番号を調べる。
《開発二課 久保田絢生》
《半年前、過労による心停止で死亡》
名前を見ても顔が出ない。関連記憶を開くと、会社の権限表示が重なった。
絢生は同期入社だったらしい。深夜の屋上で缶コーヒーを分けた。奏汰が辞めたいと漏らしたとき、「俺が先に逃げ道を作る」と笑った。その翌週に倒れた。葬儀へ行った記録もあるが、平日の社葬だったため内容は会社所有だった。
どれも勤務時間中の出来事だった。
奏汰は絢生の記憶だけ買い取れないか人事へ尋ねた。担当者は規約を確認し、「競業情報を含む可能性があります」と断った。死者の笑顔にも、機密保持期限があるらしい。
退館ゲートで社員証を置くと、確認画面が出た。
〈社有記憶八年三か月分を返却します〉
〈返却後、私的感情が残る場合がありますが、補償対象外です〉
奏汰はキャンセルを押した。ゲートは開かない。警備員が近づく。
最後に白い花の写真を撮った。だが、写真には意味を保存できない。
返却を承認した瞬間、胸の重さだけが残った。
会社を出てから、奏汰は知らない男のために泣いた。なぜ泣いているのかを尋ねる相手は、もう記憶の中にもいなかった。